鉄道大臣

夢寐のたわごと

文化

アフリカ大陸にあるビクトリア瀑布(ザンビアジンバブエの国境)は、南アメリカイグアスの滝(アルジェンチンとブラジルの国境)に並ぶ世界最大の滝です。 これらの滝を目にした人は、その巨大さに驚嘆し、圧倒されます。 北アメリカのナイヤガラの滝などは、足下にも及びません。 何しろ大きいのです。 
我が国の栃木県の日光にある華厳の滝は、荘厳な滝です。 多くの日本人が、昔から、東照宮に並べて尊崇してきました。 近頃は、外国人すらも、華厳の滝を訪れ、その荘厳さに胸を打たれるようです。
滝は、大きいだけで人々を圧倒しますが、そこには「驚愕」があるのみです。 同じ滝でも、小さいながら、華厳の滝は、人々の尊崇を克ちとり、尊敬の念を呼び起こします。 そのような「念」を起こし、感じるのは徳川家康に纏わる歴史を知っている日本人だけかと思ったのですが、近頃は、日本史には関係の無い外国人までに尊崇の念を起こさしめるらしいので、「滝」はサイズだけで人々を驚嘆させるのではない、と思われます。 華厳の滝を拝んだ後の外国人は、東照宮を見て、既にその芸術性に驚嘆しているため、「おまけに=ついでに」華厳の滝にも驚いている訳でもないようです。
滝の「サイズ」自体は、自然の営み(いとなみ)です。 その自然の「あり方」は、個々の自然、自然によって異なると思います。 日光は、誰が選んだか、今日では知るよしもありませんが、兎に角良い場所を選んだのです。 その「選択」は、誰かの着眼であり、「人為」です。 たまたま、日光のような奥深い山の中に、中禅寺湖という湖があり、滝があるという土地柄を見つけて、その土地柄に徳川家康(権現様)という「もったい」を付け、滝の風景と重ね合わせて、「華厳の滝」の荘厳さを作りだしたのではないでしょうか? 
そう言えば、日本には「借景」の伝統があります。 自分の家の小さな庭の「背」景として、自然の風景を「拝借」して、あたかも自分の庭の一部であるカのように見せる、あのやり方です。 小ずるいと言えば、たしかに「小」狡いようですが、これは日本の伝統であり、文化です。
そう言えば、借景以外にも、日本文化は、いろいろな「技術」、「技巧」を生み出しています。 「築城法」も、その一つです。 世界では、日本にしかありませんが、「泥」と「木材」と「石」で美しい城を作る技術は、まことに芸術的です。 先の地震で、いまは残念ながら跡形だけが残っていますが、加藤清正が築いたと言われる「熊本城」は、日本文化の一つの跡であり、現在修復中の姫路城も、今ひとつの例です。 
日本の国土と言う(地震と火山ばかりの)自然は、天から与えられた物ですが、これを日本文化へ仕立て上げ、そしてそれを伝統の形で残してくれた原住民のアイヌの人達、聖徳太子菅原道真、多くの東南アジア、中国、朝鮮からの渡航人たち、紫式部清少納言西行法師、法然上人、親鸞聖人、源頼朝義経兄弟、太平記作家、戦国時代の諸大名、諸戦術家、関の刀匠達、剣術家、徳川家康、歌川清麿、葛飾北斎勝海舟福沢諭吉西郷隆盛、その他、諸々の名の良く知れた、そして諸々の名も知れずに亡くなった各地の里山に住んでいた庶民、長い海岸線に沿って住んでいた漁師達、など、各地、各時代の日本文化と伝統の先人達男女に大いなる敬意と拍手を送ります。
文化は「自然と人」との関わり合いの中で生まれます。 「関わり合い」がなければ、ただの「自然(が与えた物)」であり、「人」であるに過ぎません。 「関係(人為)!」、これが大事なのです。 極論すれば、関係が文化であり伝統なのです。 私の持論(誰かが既に言ってしまっているのなら、ご免なさい。 決して、版権侵害の積りはありません)は、「文化と伝統を育むのは人と自然の関係である」と言う主張です。 更に別言しますと、「環境(自然)と人の関係が、文化と伝統を作る!」です。 

ちなみに、このことを今は亡くなった私の先生で友人であったアメリカ人はTask relevantと呼びました。 この言葉を、日本語に意訳すれば、「課題対応」、さらには「状況対応」になると思います。 状況と課題(つまり、与えられた自然)と人との(の対応関係)が、文化と伝統を育むのです。