鉄道大臣

夢寐のたわごと

教育後進国

私は恵まれていた。 北欧の数国(フィンランドスウェーデン、など)では、高等教育まで無料で受けられると聞いている。 日本では、これは貧乏人には無理な話だ。 私の生まれた家は、貧しくはなかったが、富裕とは呼べない小売商の家だった。 おまけに、9人兄弟姉妹の末っ子に生まれた。 中学校へすら行けなかったが、尋常小学校の高等科(2年制)を卒業した後、某地方の日本帝国陸軍造兵廠へ軍属として勤めることになった。 

ところが、終戦(敗戦)の結果、奇しき運命の展開が起こり、主にアメリカ人恩恵者達の援助を受けて、大学、大学院までの高等教育を授けられ、恰好ばかりだが名誉博士号まで、授けられた。

教育先進国、例えば、フィンランドでは、こうした教育を誰もが国の制度で恵まれるようになっている。 身の丈に合わせて、英語の試験を受けねばならぬ日本の教育制度では、考えられない「幸運」だと言えよう。 私事だが、私の場合、数人のアメリカ人恩恵者から支援は受けたものの、高等教育の大部分は日本の国内で受けている。 

思い起こせば、アメリカ人恩恵者達は、私を助けて呉れはしたものの、彼らの支援は「私の自発性」を損なうものではなかった。 むしろ、私の自発性、自律性を引き出す体(てい)のものであった。 

若い頃、関西の故郷から関東へ独りでやってきた私は、青雲の志に燃えていた。 ただ、機会には恵まれてはいなかった。 最初に、支援して呉れたアメリカ人老婦人は、機会と資金を私に与えて呉れた。 

金と機会を貰った後は、私は自由であった。 戦後の混乱した世相ではあったが、彼女は私のような日本人の若者を日本の某有名大学のアメリカ人学科長へ私を紹介して、入学面接の機会を与えて呉れた。 お陰で、私は、受験競争は経験しなかったばかりか、 このアメリカ人老婦人は、私に、「自分が独りで励む」機会を与えて呉れたので、従って、私には、誰とも「競う」必要はなかった。

隣の国、韓国もそうだそうだが、日本においても、若者たちは、高校、大学入学試験なるムダな活動に、神経をすり減らしているばかりか、競争という「仲間割れ(嫉視・羨望)」、「弱肉強食」の習慣に伸びるはずの能力を「矯め」、「砕いて」いる。  

競争は、人を励ますどころか、人を「争い」と「勝利の狂喜」、「敗北の悲嘆」へ導く。 競争は、時に戦争にまで発展し、国家間、民族間、種族間の「恨み」を生み、「殺戮」を招き、延いては、人類の不幸、悲
哀を生む。 

スポーツの世界ですら、フエアプレイの精神、スポーツマンシップが、必ずしも、現実にはあてはまらないことが、先の世界ラグビー戦で示された。 ラグビー発祥の国で、フエアプレイを唱える英国のチームが、旧属国の黒人のチームに敗れたため第二位になったが、英国チームの選手は、表彰台で「銀メダル」を首に掛けるのを拒否したと聞いている。 

勝敗を競う事が当然である筈のスポーツの世界でも、勝負は、恨み、妬み、口惜しさ、他人を蹴落す気持ちなど、「争いの種」を残すのである。 まして、人生の入り口である高校・大学入学における競争試験などは、論外である。

競争が起こるのは、資源が限られているからである。 他方、思想、知識、情報、才能、技芸、に「限度」があるはずが無いが、富裕な者の子弟のみに高等教育が与えられるのは、教育に「限度」を設けることに他ならない。 「限度」は拘束である。 拘束は、自由な知能の発達を阻害する。 

教育制度が、先進的であるためには、教育が「自由」に与えられねばならない。 言い換えれば、誰でもが、望む限り高等を含めて、どのような教育でも受けられる制度を整えて初めて、先進的だといえる。 その意味で、高等教育(高校、大学、大学院)へ進学するための「競争試験」がある日本の教育制度は、「遅れている」と言わざるを得ないし、戦争を煽る野蛮な制度である。