鉄道大臣

夢寐のたわごと

不平等

自然は、生物に「弱肉強食」の本能を与えました。 「適者生存」という在り様(舞台)も与えてくれています。 親子同胞が相親しみ、社会(仲間)を作る本能(道義心)も与えました。 未知の巨大なものを恐れる信仰心も与えました。 人類発生から、数万年、数千年たって、人類は、漸く知性(理性)を花開かせ、一部の人間に「人権の目覚め」を与えました。 

自然が人間に与えたものは、元々、不平等で差別的だったのです。

一部の人間は、「知性」によって、「自由、平等、友愛」に目覚めました。 人権は、自然が与えなかったものを、人為的に「克ち取った」のです。 それを謳歌する権利は、「克ち取った」人々にのみ許されます。 彼らは、「友愛」と叫び、その一部を分かち与えようとしますが、「易々」と受け取るべきではありません。 あなたも、克ち取るべきなのです。 さもないと、「人権」の価値がなくなります。

脳と体

脳と体は、一体になっているので、身体が弱ってくると、脳も弱ってくる。 だから、年を取ると(体が弱るので)、脳も弱り認知症になる。 「逆もまた真」というが、それでは「脳が健常だと、身体も健常さを保つ」といえるだろうか? 

近いところでは、日野原重明の例がある。 彼は、105歳で死ぬまで、現役(?)で働いていた。 だが、彼のケースだけだと、一例にしか過ぎないから、信憑性は薄い。 他に例はないか? 自分の例はどうだ? これはダメだ。 脳は、シッカリしているつもりだが、車椅子を使っている。 自分の例は、「脳と体は別だ」という例にしかならない。 

古いと言っても、あまり古いと伝説の域を出ないから、その意味で、信憑性が薄くなる。 比較的近い、古い例だと、107歳まで生き、徳川家に仕えたとされる「天海僧正」の例がある。 今少し信憑性を求めて、近い例を探すと、104歳まで生きて活躍した政治家、加藤シズエのケースもある。 

See?  加齢しても、脳が衰えず身体が健常という例は、いくつもあるんだよ。 しかし、さらに一歩進めて、脳の健常性が、身体の健常さを維持するというケースはないのか。 つまり、身体優先ではなくて、脳優先の例だ。 これの例を探すには、人の体内、脳内の様子を知るわけだから、科学的証明の方法も、併せて見つけなければならない。  

いや、そんな苦労をしなくとも、これの例を求めることは出来る。

私自身が、車椅子を離れて独り立ちし、自由に外出すれば良いのだ。 私自身が自分で証明すれば良い」訳だ。 私の責任は、重いなぁ! 私は、現在91歳で、車椅子を利用している。 一層の長生きと健常回復(車椅子放棄)が使命だ。 やるぞ!  まてよ。

この証明の利益に、私も預かるな?  なにも、頑張るほどのことではないじゃないか。 やって当然だ。 

遊び仲間

麻雀にしろ、ポーカーにしろ、それらゲームの面白さもさることながら、ゲーム中に戦わす「無駄口」が楽しい。 しかし、無駄口は、誰とでも戦わせることができる訳ではなく、気心の知れた相手でないと、戦わせられない。 ゲームに気を取られて、相手を傷つけるような失言を漏らしても、相手が傷付かず、仮にこちらが、「痛てぇ」と感じても、その失言を咎めない寛容さが必要である。  

相手の失言を許す「寛容さ」が、気心を許し合う人間関係を産むのである。 ぎすぎすした関係の仲間(?)とは、土台、ゲームは楽しめない。 ゲームの楽しみの半分以上が、人間関係から生まれるといってよい。 しかし、無駄口が過ぎると、限界を越え、喧嘩になることもある。 その後、しばらくは、互いに口も利かない、事にもなるが、心の中では、互いに「悪いことをしたな、言ったな」と後悔しているものである。 そんな時には、「時の氏神」、つまり、親しい第三者の双方にとっての親しい友人が役に立つ。

教養と文化

「若き84歳の老爺」の「女が理事会に入ると話が長くなる、云々」の感想を漏らした失言の恥を二回も上塗りして、その恥ずかしい状況から、この男を「抜き」も、「指し」もならぬ状況へ追い込んだ、取り巻きの恥知らずがいる。 

七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき

84歳ともなれば、「実」が無いことは、誰もがよく知るところである。 しかし、花を残している男もいる。 90歳を越えた我には、花の見込みはなくとも、84歳なら繚乱と咲く筈だった花の可能性があった筈だと気の毒に感じ、同情している。 その可能性を周囲が押し潰した。 日本の周囲も、そして、文化的背景も知らずに雷同した世界中の知識人たちは、無責任の謗りを免れない。

若き日の太田道灌が、突然の雨に、蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。  後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の遇意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載る。」ウイきぺディア

平安朝に始まる日本の武士(男)の伝統には、「深い教養」も込められている。 武士は教養人であった。 彼等は、平和の印の教養を身に着けるべく励んだ。 「勝敗を競うばかりが武士ではない、武士は、譲って勝った」。 故事、青葉の笛、に見られる「涙を呑んで、若き公達、平敦盛の首を取って、後に出家した熊谷直実」のような武士は、殺戮、強姦を欲しいままにしたコンキスタドールではない」、武士は、女を含めて弱い者を助ける義侠心を持っていた。 

文化は、その国々、種族、民族によって、様々な要素を持って築かれている。 日本の場合もそうである。 日本文化の基本を為すのは、約1000年(もっと、スペシフィックには、約800年)続いて今日に至る武家(男)の文化である。 日本男児武家)の文化的伝統は、約800年の武家の歴史を通して、培われ、今日に至っている。 その武家(男)の歴史をめぐって、女の文化も流れてきた。 「女無くして、なんで、この世かな」。 女は、不可欠な文化的要素である。 

武家文化は表立ってきたが、裏でそれを支えたのは、女流文化であった。 両々、相い親しんで、日本文化が育ってきた。 日本の男は、女を侮蔑しない。 この事実を裏付ける故事、諺には、事欠かない。 表で、侮蔑しているように見せ掛けても、女は、裏で奉られている。 これが武家の文化である。 女性差別は、世界の伝説に過ぎない。 日本の文化の伝統には、身分差別やドメスチック・ヴァイオレンスは在っても、女性差別は無い。 

たて‐まえ〔‐まへ〕【建前】

家屋建築で、基礎の上柱・梁(はり)・棟など主な骨組み組み立てること。また、その時に行う祝い。 棟上げ。 上棟(じょうとう)式。

たて‐まえ〔‐まへ〕【立前/建前】

 原則として立てている方針。 表向き考え

 行商人大道商人商品を売るときの口上。 売り声

デジタル大辞泉

男は、建前をとる。 表の手柄は、男のものである。 だが、山之内一豊の場合のように、「内助の功」が、その陰にある。 月々の給与は、男が貰って、女が管理する。 貯金帳も、女房が抑える。  

しかし、世間体がある。 「金」は、自分が握っている、という振りをしないと、男は、世間に顔向けができない。 たとえ、女房が喚こうとも、せめて貯金通帳ぐらいは、持たせろ!と男は喚く。 夫婦喧嘩である。 暴力はイケナイが、ドメスチック・ヴァイオレンスの悲劇も起こり得る。 男は、生理的に強い。

体裁(ていさい)

1 外から見た感じ・ようす。 外見。 外観。

 世間の人の目にうつる自分のかっこう。 世間体。 みえ。

 それらしい形式。

 相手を喜ばせるような振る舞いや口先だけの言葉。

Goo辞書

男の生理的優位、世間的建前、男の見栄、伝統的文化的承認、などの条件が重なると、日本の伝統に疎い外国人共は、日本に女性差別の気風があると、誤解する。 その誤解に油を注ぐ、裏切り者の内部告発者である日本の、いわゆる似非知識人、も多い。

差別

 差別さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。 それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。 国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。

出典: ウィキペディアWikipedia

女性差別が問題になり、オリンピック組織委員会の会長が辞任しました。 この会長の辞任に大きな役割を果たしたのが世界の識者こぞっての非難でした。 そこで、私が、問題にしたいのが、(おそらく、詳しい点の判らない)世界の識者たちが、今回、日本で起こった、この「差別」事件の意味を理解しているか否か、という点です。 

どのような事件も、その事件が、単独で、空白の時空の中で起こるのではなく、必ず、その事件を取り囲む歴史的、社会的事情や条件の中で起こります。 今回の差別事件も例外ではないと思います。 従って、この事件を評価し、非難するには、そうした周囲の事情を理解した上で為すべきであり、そうでなければ無責任な評価、非難であると思います。 

翻って、差別は、言葉や観念としては、どこにも存在しますが、意味合いは、種族、国民の間で、それぞれの伝統や文化を反映して、少しずつ異なる筈です。 例えば、日本の場合、平安時代源氏物語作者、紫式部や枕草紙作者清少納言を下敷きに、優雅な女流文化を尊重し、崇めますが、他の種族、民族には、おそらく、そのような下敷きが想定できず、それなりの女性尊重なり、蔑視なりが行われていると思われます。 

今回の事件を非難したり、その非難に雷同した世界の識者たちは、深い考えがあって非難したのではなく、日本人識者の非難に雷同したものと思われます。 雷同の種(タネ)は、世界の識者たちが「基本的人権」の思想を、前提として抱いていたからでしょう。  

現代の文明や文化の進歩を測る尺度は、一般に、西欧思想に置かれていますが、西欧思想以外にも、進歩の尺度はあります。 最たるものは、東洋の思想です。 キリスト教文明ばかりが、文明ではありません。 儒教もまた、立派な文明の尺度です。 現代科学技術の遅れをもって、文明の進歩の遅れとするのでは心が狭すぎます。 同様に、啓蒙思想(啓蒙時代)の遅れをもって、他の文化を貶めるのは、思い上がりです。  

差別には、多種多様の在り様があります。 差別にも、人種差別、宗教差別、身分差別、障碍児差別、HIV差別(インド)カースト差別(インド)、その他、など、表現にはいろいろありますが、要するに、差別とは、基本的には、「正当な理由なく、他人(相手)に不利益を及ぼす言動」なのです。 女性を「女々しい」と呼び、女性の仕草を「はんなり」と形容したにしても、決して相手に不利益をもたらしたことにはなりません。 (ひょっとしたら、女性を男らしい、と形容すれば、「差別的」ですか?) 同様に、「暗に」女性は口数が多いと描写しても、女性の愛らしさについて語ったとは言えるにしても、差別したことにはなりません。 ましてや、「蔑視」とは、思いもかけぬ濡れ衣です。 

他の国の識者はもとより、他国の人々は、日本の優雅で美しい女流文化の伝統と文化は知りません。 歴史的事実に対する無知と不寛容の心から、日本の、当然、こうした文化の違いを知るべき知識人や人々が、女性は口数が多いという事実を確証することもなく、先のオリンピック組織委員会長を謗り非難して、他国の「訳の分からぬ」いわゆる識者までも雷同させ動員して、当人を会長職から叩き出するなどは、以ての外です。 こうした、いわゆる日本の知識人、著名人、芸能人、達の「武士の情けも知らぬ浅はかな言動」を、指摘せざるを得ません。 

お前ら、それでも男か(男らしい女もいるな?)! 

日本の身分差別、女性差別には、「正当な理由があるか?」 あると言えば「ある」。 歴史的伝統的、および生理的理由の下、日本では、身分別、性別、上下、先後、男女を区別してきている。 

相手に、結果として不利益が生じたか否かは、明白である。 ただし、不利益や利益を生じても、それを「甘んじて受け入れる」のを、日本では、当然の態度、ないし美風にしている。 というのも、その事実を、「この国の」周囲の人々も受け入れる美しい文化であり、伝統と心得ているからである。 

上司には敬意を払い、部下を慈しみ、先輩を尊敬し、後輩を労わって、嫁しては、夫に従う、日本式の社会習慣は、時に、美風と嘆じられ、時に差別的と非難されるが、その度に、世界の趨勢に対して右顧左眄するのは、「男らしくない」。 

他方、外国の知識人たちは、日本の「おもてなしの文化」を美しいと評価することがあるが、日本の文化は、「おもてなし」だけで発達したのではない。 日本の文化伝統は、多くの要素を含み、他の文化文明と異なる点も多々あると思うが、そのために日本人の良識と異なる評価を受けるのは、日本的観点から見れば不条理である。 

文明の程度を測る尺度は、西欧の文化のみではない。  

この問題を、良い機会と捉えて、日本の伝統を世界に知って貰うとよい。 日本の伝統には、「女」差別以外にも、「差別」意識が残っている。 「女」差別以上に、重大なのは「身分」差別である。

今回の事件に当たっても、新会長をはじめ、多くの取り巻き連中、マスコミ記者、らが、退任していく旧会長を「先生」と呼んでいる。 

文字通り解釈すれば、昔の人たちは、全て「先」生である。 先祖を貴ぶのは、日本のみならず、世界一般の慣行であると思う。 その慣行を持って、「差別」とは言わないと思うが、しかし、おそらく、日本では、「先生」は、格別の意味合いをもつ「敬称」である。 相手が先生であれば、「一歩譲って」、物事を運ぶのは、社会生活上の慣行であって、日本の伝統では、これを「美風」と受け止める。

リーダーシップ外談

今回の「オリンピック委員長後任」の候補者選びにおいても、そうですが、「あの人には、リーダーシップがある」といった評価が、いくつも聞かれます。 日本人、特に知識人、文化人と呼ばれる人たちの間で、リーダーシップを「ある、なし」の問題として受け取られていることが気になります。 

リーダーシップは、オーストリア経営学者、PF.ドラッカーの説のように、「仕事」、「責務」、「責任」であるとするのが、最近の傾向です。 もちろん、仕事、責務、についても、「ある、なし」の論議は可能ですが、文脈から言って、日本の知識人たちが言う「ある、なし」は、ドラッカーの言う責任の「ある、なし」とは、違うものだと、感じられます。 

日本人が言う「ある、なし」は、人徳、資質の、あるなしです。 ドラッカーなら「仕事」の、ある、なしを言う筈です。 観点を変えれば、日本人は、従来の姿勢と変わらず、リーダーシップ論を「人物論」として理解しているのです。 

経営学は、近代化されていても、その経営学の恩恵にあずかる筈の日本人(の頭)は、近代化されていないのです。 これでは、「女の多い理事会の会議は、長くなりやすい」と思う、日本人の近代化は、未だし、と言わざるを得ません。 やっぱり、日本の女は、西洋の女、例えば、鉄血宰相と呼ばれたイギリスのサッチャー首相や現ドイツ連邦の宰相、メルケル、とは違って「お喋り」なんです。  ♬ こんな女に、誰がした ♬

思いやり

「「思いやり予算」とかの名目で、大変な金額の金(日本国民の税金)を、アメリカ(軍?)に、献上しているようですが、これは、

無条件降伏の結果の一つですか?  「撃ちてし、止まん」の大和魂と竹やりとで武装して、物量を誇るアメリカさんと戦った日本人は、「この期に及んで、思いやり」ですか? 

「武士は、相見互い」、「敵の弱り目を、叩かざる」を良しとする武士の面目は、「女が集まる会議は、長くなる」云々の失言で、折角の役職を棒に振った「腐れ武士」を、その上から、さらに叩くのを武士の風上にもおけぬ「女々しい」在り様と嘆くのは、武士が居なくなった日本では、全くの時代遅れかな? 

相手の欠点、隙を見て見ぬふりをするのが、武士。 見てしまっても、これを労わるのが、武士の思いやり。 さらに、これを隠してやれば、武士らしい仕草。 負けるかも知れないと思っても、敵に「塩」を送る気位が欲しいもの。 「鞭声粛々、夜河を過る~、暁に見る千兵のを~、大牙を擁するを~」。 

そういえば、最近の皆々様が、日頃、ご尊敬なさる合理主義の塊のような欧米人の間にも、「善きサマリア人」の伝統があるそうで、善きサマリア人は、強盗に襲われて道に倒れた喧嘩相手のユダヤ人すら、助け、労わる、古来の日本の武士にも似通う「労わりの心」を持っていたと聞きました。 

日本の武士は死に絶え、弱った相手を蹴り倒し、一層いじめる女々しい心映えを持つように成長したと聞いています。 これも、先の太平洋戦争における無条件降伏が生み出した結果でしょうか? 「弱り目に、祟り目」とは、よく言った。 弱ったなぁ。 

女の特性

最初にお断りしておきますが、私は、女性についての特殊な趣味のない、3人の娘と一人の息子を持つ、年を取った普通の父親です。 

最近、ある社会的に大きな責任を担う人物が、「女性を差別している」と日本国内でも、世界の中でも非難され、袋叩きにあって、その責任ある地位を辞しました。 私は、この非難、袋叩きは、非難し、袋たたきする側の無知と非寛容に由来すると思っています。  

性の違いは、生理的な自然のものです。 「差別」は社会的事象です。 男女は生理的に異なりますが、社会的には平等で、同列だとする考えが、この非難の背景に存在すると思います。 この考えそのものには、私も同意します。 しかし、女性は、男性に男性としての生理的特性、特徴が備わっているように、男性とは異なる生理的特性、特徴をいくつも持っている、という事実を認めているくせに、先に挙げた社会的に大きな責任を持つ人物を非難する人たちは、その生理的事実の認識と差別意識とを混同していると思います。  

現在の社会は、男性優位に形成されています。 男性優位の社会では、物事の判断の基準も、男性目線で決められます。 男性優位の社会では、物の見方、考え方、など、全てが男性目線、男性基準、男性の立場で決められるので、「区別」、「差別」の判断も、男性目線で決められると思います。 「こんな女に誰がした!」と流れる演歌がありますが、もちろん、男性社会では、どの男と特定するまでもなく、女を女らしく、男がしているのです。 女も、女らしくふるまっているのです。

男女が平等に教育の機会が認められる現代では、仕事を遂行するために必要な能力に男女差はありません。 しかし、とっさに感じる快・不快は、脳の違い・感性の違いから男女間では大きな違いがあり、その違和感が職場のコミュニケーションや仕事の成果に大きな影響を与えます。 自分と違う感性の人のモノの見方、感じ方、快・不快etc を知り、互いにとって居心地がよく、良好なコミュニケーションを図れるようになることはダイバーシティーの第一歩。 多様性を認めて活かす強い組織づくりに欠かせません。(おんなこころマーケってイング研究所)

男社会に中に置かれた女性が、同類(仲間)を求めて寄り集まる傾向を持つのは、「男が支配する社会」では、自己防衛意識、親近感、などから当然のことだ、と思います。 社会ではもちろん、職場でも、家庭でも、学校でも、あらゆる場面で、男が支配する社会では、「男」が、物事の前面にしゃしゃり出ます。 受ける立場の女性は、受ける姿勢を特性、特徴として現わします。 「仮に~」という話は、現実的ではないという非難もあるでしょうが、「仮に、女支配の社会があるとしたら、」性差別問題も、変わった様相を示しているに違いありません。 「小田原評定」という言辞、表現は、男を蔑視しているので、この言葉を使うと、差別的だと非難されるでしょう。 逆もまた真で、女に、優しく、柔らか、かつ、しなやかで、はんなりした言動・仕草は、期待できません。 

しばしば、欠点の反面が、美点であることがあります。 欠点を取り除くと、美点も消えます。 女は「口やかましく」、夫である男に親切なのです。 女は、夫を厳しく、問い詰めるから、夜遅くまで待ちをうろつく男の酔っ払いが少なくなるのです。 男社会では、女の欠点を、都合の良い時は、受け入れますが、都合が悪いと、欠点として詰ります。 といのも、男が社会を支配しているからです。 口数が多いのは、許そうではありませんか。 だから女であり、貴方の女房なのですから。 

女が、寄り集まり、同類で話し合う傾向を持つ一つ理由は、男支配から身を守るためであり、男が、そのように女を仕向けているのだ、といえます。 女の特色、特徴の多くは、支配する男に媚びる女の気持や言動の表れだ、と言えるでしょう。 媚びると言えば、男の側にも、女の機嫌をとろうとして、女が喜ぶ言動に走ることがまま、あります。 男女は、生理的に惹き合うので、お互いに相手の言動の特性・特徴を、作り合っている傾向も見えます。 

「押してダメなら、引いてみな」という言葉があります。 同様に、「理屈がだめなら、泣いてみな」という箴言も成り立ちます。 男女の在り方を「区別」する事と男女互いの「蔑視(差別)」する事は、次元の異なる問題です。 一方は、自然が作る生理の問題であり、他方は、人為的な社会的事象です。 女の口数が多く、姦しいのが、仮に女性の特性・特徴であるにしても、単に特性・特徴であるだけで、この特性に言及したにしても、日本という男(武家)文化社会に内在し、瀰漫する(女軽視の)感じを素直に述べただけで、取り立てて差別した訳ではありません。 この件を、「差別」だと騒ぎ立てること自体が、差別問題に敏感な、容赦の無い、鋭くて繊弱な、女々しい「差別意識」の表れです。  

日本文化には、芸者、芸事(三味線、琴、扇、女性のはんなりとした特有の言葉使いや振舞、仕草、など、)、聞香:香道、などを尊重に値する伝統があるので、普段は、この日本の伝統を特異で、稀覯(きこう)な、日本の女性特有の文化だと持ち囃している世界や日本の文化人も、別の問題が起こると、現に目の前に起こっている別の問題にかかづらわるのあまり、褒めそやした筈の日本の女流文化の伝統が持つ特性・特徴を忘れてしまうことがあるようです。  

もちろん、日本女性の伝統や日本女性の特性、特徴を、始めっから知らないか、興味のない世界の知識人もいます。 こうした無知な人たちすらも、自分が抱く男女同権という基本的価値観に基づいて、深い考えも無く、他の人たちから「差別」を非難する主張が起こるとその主張に同意し、非難の声を揃えて上げるのではないかと思います。 

「女三が人寄れば、姦しい」のは、日本の武家の伝統に由来する男社会の中での自己防衛とお互いの親近感保持の為に、(日本)の貧乏長屋の女性たちが、仲間同士による「井戸端会議」に走り易いことは、昔から知られている日本女性の特性・特徴かもしれませんが、国会のように、愚図で無能な歳費泥棒男がメンバーであっても、会議は長くなり易いのです。 話が長いのは、女性の特徴ではありません。 優柔不断で、決定にたじろぎ、結論を引延ばす男の政治家も沢山います。  

男社会では、男立場の視点が支配的になります。 男が支配する社会の生活に慣らされた女性もまた、男支配に「慣らされている」ために、男視点に立ち易いのです。 女性たちは、自分たちが持つべき視点を見失ってはなりません。女性たちも、女性が人権を主張し、女を主張して、社会へ顔を出すべきなのです。さもないと、過去からの行きがかり上、何時までも、男が支配する文化、社会の中で、生きなければなりません。

女よ! 汝自身を知れ! 男に頼るな!

青葉の笛

古い話です。 まだ、日本には、軍国主義というものが、盛んだった頃です。 私は、小学校で習い、歌いました。 それが、「青葉の笛」でした。 この話は、多くの人、織田信長を含めて、によって語り伝えられております。 この話は、謡曲化され、「平敦盛幸若舞)」と呼ばれました。 信長は、「人間(じんかん)50年~」と詠い、49年の生涯を京都の本能寺で終えました。 正に、第二の人生に入らんとする若い年齢でした。 

コンキスタドール(征服者)、コルテスが率いるスペインの傭兵は、当時すでに開発されていた鉄砲を部下に持たせ、南米に栄えていたアステカ王国を襲撃しました。 部下たちは、情け容赦なく、土着の女たちを強姦、子供も殺戮して、この王国を根絶やしにしました。

1521年頃のことだと言われています。 続く、コンキスタドールピサロも、同じように、1533年にインカ王国を征服しました。 

源氏の軍勢は、1184年、敗れて逃げて行く平家の軍勢を、須磨の浦へ追い詰めました。 一之谷を駆け下りた熊谷直実は、鎧兜も鮮やか、な平家の大将を見つけ、「やぁ、やぁ~」と挑みかかりました。 組強いて、首を掻き切らんと、兜をとってみると、我が子(14歳)とも、見紛う年齢の等しき若武者です。 仲間の武将たちの見守る中、涙こらえて、この武者を殺し、その後、自分は出家したと伝えられております。 さすが、仲間の群將が見守る中、この若武者を「武士の情けじゃ」と逃がしてやるわけにはいかなかったのです。 ちなみに、この若武者の心映えでしょうか、箙(えびら)に名笛と伝えられていた青葉の笛を指していました。

「武士の情け」は「武士が自分より弱い者に与える恩恵、強い者が弱い者に向ける哀れみや思いやりの気持ち」というのが一般的によく見られる意味です。 しかし、この意味だけでは「武士の情け」の味わい深さは説明しきれません。

武士はプライドを重んじる

「武士に二言はない」という言葉があります。 これは「武士は一度言ったことは必ずやる」という意味の言葉です。

また、もう一つ有名なもので「武士は食わねど高楊枝」という言葉があります。 これは「武士は例えご飯を食べていなくても、弱い一面は決して見せない」のような意味の言葉です。

この二つの言葉から見て、武士にとってプライドがいかに大事なものか伝わって来ます。 「武士の情け」は単純に哀れみや思いやりの気持ちではなく、武士が他の武士のプライドを守るための行為を表しています。 仲間が恥をかかないように、知っていても敢えて黙っているような、男気溢れる言葉だといえます。

ウイキペディア

「優雅」という日本語があります。 「武士の情け」も日本語です。いや、武士の心映えです。 最近、ある84歳になる若者が、人前で、「女性が多い理事会の会議は、長くなる、云々」と、口を滑らせ、その職を去った、という話を聞きました。 まだ、「花も、実もある」若さでは、ありませんか!  

日本の文化は、ここ800年ぐらい、武家政治で賄われてきました。が、ほんの数十年前、この武家政治の名残も消えて、西洋風の新しい思想、民主主義が導入されました。 まだ、この思想は、十分に日本になじんでいません。 武家文化は、男支配の文化です。 この文化が、800年ほども続いてきたのです。 まだ、少しは、この武家文化の名残が残っていようか、と思ったのですが、「武士の情け」は、消えました。 コンキスタドールの、荒々しさに取って代られたのです。

私(91歳)も、消えなければ、イケマセンか?