鉄道大臣

夢寐のたわごと

人の命

私の部屋のすぐ前にあるラウンジ(ホール)に多くの入居者が集まって、機能運動指導員の指導の下、「機能運動」をしている。 その指導員の声と参加している入居者たちの声が、うるさく聞こえてくる。 私は、この系列内の老人ホームのいくつかの施設を渡り歩いて、20年前後になるが、「機能運動」に出席したことはない。 集団活動が嫌いだということもあるが、機能運動そのものの価値を認めないこともある。 

現在の施設には、約13年間ほど住んでいる。 辺鄙な場所にあるが、設備や面倒見がよいので満足している。 この施設には、常時80~90人の入居者がいる。 入居者の数を正確に言えない訳は、死亡を含めて、出入りが激しいからである。 

機能運動の目的は、よく知らない。 しかし、この十数年の入居者の出入りを見ていると、機能運動と寿命・健康とには関係が無いように思われる。 神仏ではないので、断言はできないが、私は、機能運動を敬遠しながら、90歳を超えた。 幸い、身体の動きには、歩行に若干の不都合を感じるものの、大した不都合はない。 タクシーなど、公共交通機関を使えば、自由にあちらこちらへ行ける。 

寿命は、私の考えでは、外的精進と内的養生で決まると思う。 外的には、事故を警戒している。 また、医者に掛かることも避けはしないが、医者は、私の体が持つ「自然治癒力」の手助けをしてくれる大切な専門家だと思っている。 できる限り、医者を避けて、養生で健康を保つようにしている。 自分の手に余るときにのみ、医者の手を借りる。 

しかし、私が住んでいるのは、「有料介護付き」老人ホームなので、「不本意に」医者・病院へ送られてしまうことがある。 こうした場合も、出来る限り、自立して通院するように心がけている。 病気は、「気」の持ちようというが、私は、「自立・自律」が寿命と健康の本だと思っている。

目標による管理

今は、それほど聞かなくなりましたが、P・F・ドラッカー経営学が華々しく話されていた頃、「目標による管理(Management  By Objectives)」も喧しく論じられ、多くの企業で実行されていました。 しかし、多くの企業で、「目標管理」が採用され、実践されていたにもかかわらず「目標による管理」は、その跡が消えかかっています。 なぜ? 

私が考えるのに、その理由は「目標」にあったと思います。 目標による管理は、「管理の制度」です。 「管理」とする限り、そこに「規制(他者の介入)」が働きます。 目標は、本来、行為の当事者自身の意思によって設定すべきなのです。 他者の容喙すべきものではありません。 

企業組織内で、設定される目標は、仕事の目標であり、全体目標から天下ってきた下位(部分)目標、言い換えれば、「割り当て」的性格を帯びた、「与えられた」ものです。 担当者自身の意思が加わったものではありません。 目標による管理制度を成功させるには、仕事の担当者の意思を組み入れ、反映した「仕事の目標」を設定すべきなのです。 制度の導入、実施に失敗したとすれば、多くの場合「一簣の功(いっきのこう)」を欠いたのでしょう。

 

目標の実現Ⅱ

先のブログ「目標の実現」の冒頭で、下記に挙げる論語からの引用を紹介しました。 この陳述は、リーダーシップの根源である課題の「目標」の性質を良く説明しています。 目標は、本来従う人々

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論語には、「子の曰わく、其の身正しければ、令せざれども行なわる。 其の身正しからざれば、令すと雖ども従わず」とあります。 リーダーの在り方次第で、命令しなくとも、フォローアーは、目標達成に勤しむが、在り方が悪いと、命令しても(人)フォローアーは、従わない、というのです。

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が決める(選ぶ)ものなのです。 人々が「希求する価値」を掲げる人がリーダーになれるのです。

 

現代の事業体や企業組織のなかでは、仕事の目標は、当該事業、または、組織の「全体目標」の一部を分担する下位者が、組織下部へ上から天下ってくる下位目標を与えられていますが、こうした目標は「賃金」なり、別の「報償」なりを代価に払って請け負う他者の目標なのです。

 

発想、着眼、または熟慮が、目標設定の根底にあると、先に述べましたが、このように設定される目標は、「自分自身」の行動のためでないものなら(他の人々のものなら)、フオロー(従ってくる)

人々の「意に適う」はずです。 人々の希求(願望)応ずる価値(意義)を、発想し、それに着眼する人こそ、人々のリーダー足りえます。

 

凡庸の(一般の)人々は、容易に自分たちにとって大切な価値に気付きません。 気付かなければ、(仮に、実現方法を知り、技術的に可能であっても)その価値を実現することはできません。 その価値を教えて呉れ、その価値へ向けて人々を導いて呉れる偉人が、リーダーなのです。

目標の実現

論語には、「子の曰わく、其の身正しければ、令せざれども行なわる。 其の身正しからざれば、令すと雖ども従わず」とあります。

リーダーの在り方次第で、命令しなくとも、フォローアーは、目標達成に勤しむが、在り方が悪いと、命令してもフォローアーは、従わない、というのです。 

目標自体の価値が人々の望むものであれば、誰に強制されなくとも、人々はその目標の実現に励むことは、自明です。 元々、目標は、人々(自分)が設定するものです。 いや、この考え方は、逆です。 人々(自分)は、「価値を認めるもの」を目標として設定するからです。 

民主主義の元では、元々、リーダーは、人々から選ばれた代表です。 従って、彼等(国会議員)は、美称で「選良」とも呼ばれます。 人々の希望や意思(目標)の実現を図って、導いて呉れる指導者(代行者)がリーダーなのです。 言い換えれば、リーダーに従う人々は、その実、自分たちの願望の実現に向かって励んでいるのです。 

しかし、現実的には、多くの人々が目標(希望する価値)を実現するには、彼等だけでは「力不足」であることが多いので、誰か力のある人(豪傑・偉人=指導者)が、それらの人々を「率いて」安全で確実な経路(過程)を導いて、目標実現を図って呉れることが必要と感じられることが多いのです。 

この場合、対象となる人々(組織集団)のサイズを考慮する必要があります。 かって、日本国天皇は、有力武将を征夷大将軍に任じて、日本国内外に盤踞する「夷(えびす)」の討伐、国民生活の安寧(目的)を図りました。 委託を受けた将軍徳川家康は、その命によって、率いる親族、部下将兵を「ご三家、御三卿親藩、譜代、外様」に分割し、それぞれの領地を安堵して、各領地内の政治を再委託しました。

 

徳川政権のような大所帯もさることながら、近代社会に登場する大、中、小企業も、組織構成の在り方は、似たようなものです。 その構成の在り方、統制の仕方には、共通する制度化された「管理の原則」があります。 私が、かって勤務した、国際的大企業も、同じような制度を持っていました。 命令系統の統一、下位階層への権限移譲、統制の原則、などは、経営(学)の中心課題です。 

例えれば、人体の構造のように、部分部分(部位)の機能が、それぞれの機能を担当し、それぞれの器官へ毛細血管が繋ってるように、全(人)体の健康な動き(生命)を保障します。 企業組織にも毛細血管のような組織の末端を手当てする機能があります。 細胞に相当する企業構成員を教育訓練する機能は、正にそうした末端機能の一つです。 

他方、組織の大小にかかわらず、組織目標の実現とその方法の恒常的維持に共通して重要な末端機能は、目標実現に携わる当該組織の細胞(従業員)の「指揮・指導(教育)」です。 ちなみに、どこかで読んだ受け売りの知識ですが、人体の健康維持、延いては、生命の維持に、動脈、静脈などの主要血管が大きな役割を果たします

が、その役割に勝るとも劣らない重要な役割を毛細血管が果たしているとのことです。 同様に、一般の組織においても、組織の構成員である従業員の指揮、指導、教育の在り方も、目標実現、延いては、組織の死命を制する役割を果たすのです。 

リーダーシップの第二の要素は、目標の実現(達成=遂行)です。

組織構成員の指揮・監督は、企業組織においては、正に、そのような業務(与えられた)目標の達成に関わります。  そのために、部下、従業員を「叱咤激励する」のも、一つの方法ですが、山本五十六大将の名言のように「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」の方法を執るのも、一つのやり方です。 こうした方法を、合理的に技術化した方法もあります。 アメリカのポール・ハーシイ博士が主唱して、技能として展開した「状況対応リーダーシップ®」がそれです。 

状況対応リーダーシップおいても、ドラッカーも主張したように、リーダー行動は、「課題志向(Task Relevant)」でなければならない、と主張します。 リーダー行動も、具体的な「状況(環境)」の中で採られるからです。 また、リーダー行動は、率いる相手の目標実現に向かう能力と意欲の程度に併せて、執られるべきです。 

相手が既に持っている目標実現(課題達成)の能力が高ければ、それなりに、同じく意欲が高い場合も、それなりにリードの努力(指導)の程度も、変えて然るべきです。 この程度を、リードされる側とする側の両者ついて、四段階に様式化したものが、ハーシイ博士が提唱する「状況対応リーダーシップ」技能です。 なお、課題実現のための相手(当事者=フォローアー)の能力、意欲、(同じく併せて、リーダーに必要とされる指揮・指導の程度)は、常に「課題」との関連で測られます。 

P・ハーシイ博士は、上述ようにリード(指揮・指導)するための具体的技法を提唱し、版権を採っています(従って、この技法の使用には博士は既に無くなっているので、博士の後継者の許可必要になります)が、P・F・ドラッカー博士は、リーデイング(指揮、指導)のための「具体的」技法や方法は、述べていません。

 

※状況対応リーダーシップ®は株式会社AMIの登録商標です。

 

 

目標のベースになる価値観

リーダーが保つべき品格は、率いる人たちの嘱望に応えるものでなければなりません。 このような品格(資質)は、人々に好かれて、頼られる公平で正義に支えられた義侠心と力を備えた人物にみられるものですが、こうした資質(徳性、人格)は、(特に、若い発現されない間は)気付かれないことも多いと思います。 長年の共同生活、周囲の人々の噂、長期に渡る当人の言動の観察、等に基づいて判別されるものでしょう。 

人格品性の判断は、「基準」が多様、かつ曖昧で掴みどころが無いとするのが、大方の意見だと思います。 長年、可愛がってきた部下や若者に、予想もしない時や場面で裏切られることもあり得ます。 人は「金銭」や「名誉」、「その他の利益」、また権力者の「愛顧」や魅力あるインセンテブの「誘惑」で、簡単に、寝返ることもあり得るのです。 信頼は、相手の心の問題であると共に、当方の在り方にも関係します。 

人間の資質を見分ける為には、当人が「確固」として揺るがない「意志」や「誠意」を持っているか否かを事前に(日頃から)見分けて置くことも、大事です。 というのも、世間には、いろいろな予想できない誘惑(トラップ)があるからです。 

高潔な人格は、当人が生きている時代(環境)の在り方に左右されると共に、育ちにも左右されます。 「パンが無ければ、お菓子を食べればよい」と言ったお姫様ならいざ知らず、一椀のお粥にすらあり付けない貧乏人の子供に、高潔に育つように期待するのは無理です。 「艱難は人を珠にしますが、悪人にもする」からのです。 

リーダーの品格は、その徳の程度が高いと、次に掲げる論語にあるように、第二の要素「目標達成(遂行)」にすら関わるものです。 ここにも、リーダーシップ論が「人物論」と混同され易い契機があることが判ります。 ちなみに、「朱子学」は、江戸時代には、長い間、推奨された学問であり、武士、延いては、庶民のたしなみとされた学問です。

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子の曰わく、其の身正しければ、令せざれども行なわる。 其の身正しからざれば、令すと雖ども従わず。

論語

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論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。その内容の簡潔さから、儒教入門書として広く普及した。儒教経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。

出典: ウィキペディアWikipedia

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なお、日本語には、翻訳されてはいませんが、Robert Hoyk とPaul Hersey共著の「The Ethical Executive」という題名の本もあ

りますが、この本は経営学関係の書物としては、珍しくリーダー(経営幹部)の道義性をテーマにしています。 

身分制度が定着していた時代には、リーダーとは主として、英雄、もしくは傑物と目される人物に限られていました。 そのような身分制度を打破しようとして、西欧では、「自由、平等、友愛」を叫んで、18世紀末期に民衆が立ち上がりました。

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フランス革命(フランスかくめい、: Révolution française, : French Revolution 1789年7月14日 – 1795年8月22日)とは、フランスにおいて、領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。 ブルジョワジーは権力を握ったが、貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続けた。 フランス革命は貴族と上層市民を対等の地位にした。

出典: ウィキペディアWikipedia

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他方、フランス革命に先立ち、武家の権力が盛んであった江戸時代後期に、独自の立場・経験、観点から、当時の「身分思想」に立ち向かい、京都府亀岡市に、人間の平等を唱えた石田梅岩という偉人が居ました。

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石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日1685年10月12日) - 延享元年9月24日1744年10月29日))は江戸時代思想家倫理学者。 石門心学の開祖。 諱は興長。 通称、勘平。 丹波国生まれの小栗了雲門下。

 

丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、父権右衛門、母たねの次男として生まれる。 1692年、8歳で京都の商家に丁稚奉公したが7ヶ月ほどで故郷に戻ったが、1707年には再び奉公に出て商家の黒柳家で働く。 1724年頃、石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立し、1727年には黒柳家を辞し、1729年(享保14年)45歳で自宅に講席を設け、生涯を布教に努めた。 梅岩の講義は受講に際して紹介が一切不要、かつ性別も問わない無料の講座であった。 

梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。 この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。 

梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。 1744年、60歳で死去。 

―(中略)― 

梅岩の思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。 同様の思想で石田に先行する鈴木正三職分説士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。 最盛期には、門人400名にのぼり~

ー(中略)― 

カの社会学ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。 

1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」、「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。 その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。 

―(中略)― 

武家を「農工商の頭」として、封建制に関しては是認したが、「下々に生まるればとて人に変わりのあるべきや」と述べ、庶民間では互いに対等であると主張し、さらに(政治上ではなく)社会的な職人上では武家も商人も対等であるとした]

出典: ウィキペディアWikipedia

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この石田梅岩に発する「身分区別(差別)否定」の精神は、後代に、例えば、渋沢栄一のような企業(発想・着眼の)精神に富んだリーダーを産み出しています。

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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体澁澤 榮一1840年3月16日天保11年2月13日〉- 1931年昭和6年〉11月11日)は、日本豪農出身の武士官僚実業家慈善家。 位階勲等爵位正二位勲一等子爵。 雅号青淵(せいえん)。

 

江戸時代末期に農民名主身分)から武士幕臣)に取り立てられ、明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔井上馨の下で大蔵少輔吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

 

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わり、同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)等の実業教育、東京女学館等の女子教育、台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。 それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。 また「論語と算盤」の言葉で代表される、道徳経済合一の思想でも広く知られている[2]

出典:ウィキペディアWikipedia

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広く引用される「孟母三遷」の教えにあるように、人間の資質・人格の形成・保持・言動には、環境が大きく影響します。 環境は、人格形成(育ち)に関係するばかりでなく、人間生活(在り方)全般に影響します。 例えば、リーダー行動の在り方(目標達成・遂行)にも影響するのです。 アメリカのポール・ハーシイ博士は、

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ポール・ハーシイ博士は、先に紹介した「The Ethical Executive」の著者でもあります。

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リーダー行動の在り方を「課業関連(タスク・レレバント:Task

Relevant)」であるとすら、主張しています。  

リーダーシップの第二の要素は、目標達成(遂行)です。  その達成の進め方を説く主張の一つに、「状況対応リーダーシップ®」があります。

 

※状況対応リーダーシップ®は株式会社AMIの登録商標です。

 

発想・着眼Ⅱ (リーダーシップ)

 

 Lead(リード):   導く、案内する、連れて行く、~の先頭に立つ、~を先導する、の首位を占める、の主役を務める、等

Sanseido’s concise English~Japanese Dictionary

案内:様子を知っていて知らせること。導く:経路を付けて、そこへ至らせる。率先:皆の先に立って物事をすること。

岩波国語辞典第六版

先のブログ、「発想・着眼」では、リーダーは、集団の行動に先鞭を付けるので、まず「目標を設定」する、と説明しました。 さらに、リーダーには、過去に出現した英雄豪傑もあれば、現在の巷間のオヤジさん、区長、知事、中央政府の官吏、大臣、企業内の部長、課長、係長、や一家の主人(世帯主)など、いろいろなレベルの人が考えられる、と説明しました。 彼等が掲げる目標は、それぞれの役割によって異なります。 個人的閃きに由来する創業者(企業家)が設定する目標のこともあれば、そのようにして創立された企業組織内で既に定められている「企業の全体目標」の一部を分担する部長や課長・係長の目標もあります。 

前回、紹介したP・F・ドラッカーは、主として企業内のリーダー(シップ)について語りました。 

ピーター・ファーディナンドドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリアウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。 「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。

他人からは未来学者フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自分では「社会生態学者」を名乗った。 父・アドルフ・ドルッカーウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。 ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった[3]

出典: ウィキペディアWikipedia

繰り返します。 ドラッカーは、リーダーシップを語りましたが、彼が語り、論じたリーダーシップは、企業の経営管理を舞台に展開するリーダーシップでした。 いうまでもなく、リーダーは、企業外にも存在します。 企業経営ばかりでなく、政治、戦争、宗教、教育、等の分野においても、リーダーが求められ、リーダーが突出します。 

私は、リーダー一般を考えているのです。 企業経営においては、ドラッカーが唱えるようにリーダーシップは、職責であり、仕事である、と言えるかもしれませんが、それはそのリーダーシップが全体目標の実現に向けて果たされる部分目標の為のリーダーシップだからです。  

目標設定は、確かに、リーダーシップの要素にちがいありませんが、その目標には、企業や軍隊の組織、などの大集団や志を共にする同士の集団における全体目標とその全体目標の達成に貢献する(組織の下位階層に分担される)下位=部分目標があります。 下位目標達成のためのリーダーシップは、職責、仕事、課題だといえますが、リーダーシップ一般は、必ずしも「職責」、や「仕事」だとは言えません。 一般的には、「(普遍的=抽象的)価値」、例えば、国民の福祉、世界平和、大気汚染解決、核廃絶のような目標を目指すリーダーシップであることが多いのです。 

このような一般的目標は、組織の全体の上位目標から「天下ってくる」下位(部分)目標ではなくて、それ自体が「閃き」や「熟慮の末に」設定される目標であることが多いのです。 一般的目標の根拠となる「閃き」は、先のブログ「発想と着眼」でみたように、凡人には及びもつかない「天才」によるところが大きいと言えます。 ところが、コロンビア大学のウイリアム・ダガン氏は、そうした天才(天与の才能)でも、人為的にある程度まで、制御できるとしています。 その制御の手法は、大まかに、次の手順を踏むものです。 

第一ステップ:歴史上の先例を集める。

第二ステップ:オープンマインドになる。

第三ステップ:突然の閃きを掴む。

第四ステップ:決意を固める。

 

なお、ダガン氏の著作は、幾つかの出版社から出版され、日本語にも訳されていますが、その宣伝になる説明は、此処では避けます。 

ウィリアム・ダガン(William Duggan)

コロンビア大学ビジネススクール上級講師。 フォード財団での戦略コンサルタントを経て、コロンビア大学ビジネススクールで、「第7感」について大学院課程とエグゼクティブコースで教えている。 また、世界の企業の何千人ものエグゼクティブに「第7感」について講義を行っている。 2014年、学長教育優秀賞を受賞。 著書に『ナポレオンの直観』(星野裕志訳、慶應義塾大学出版会)、『戦略は直観に従う』(杉本希子・津田夏樹訳、東洋経済新報社)など。      『戦略は直観に従う』が「strategy+business」誌で年間最優秀戦略書に選出されるなど、その独創的で精力的な活動は各界で高い評価を得ている。

ウイキペデイア

 

発想・着眼の優劣、是非、適否(他人=多数の賛意を含めて)、などには、もちろん個人差が出てきます。 個人差どころか、当該個人の品格の高さ、まで問題になってきます。 その故にこそ、昔から、「英雄・豪傑論」、「人物論」が、リーダーシップ論であるかのように扱われてきているのだと思われます。  なお、このテーマは、リーダーシップの第三の要素、リーダーが持つ価値観、道義観に関係するので、別のブログで考察します。

 

発想・着眼 (リーダーシップ)

私は、長年「リーダーシップ」に関心を持ち、研究を重ねてきております。 過去のリーダーシップ論の多くが、英雄豪傑の資質を説く人物論であり、近年に至って、ユダヤオーストリアピーター・F・ドラッカーが、「リーダーシップは、人間の資質ではなく、仕事であり、責務である」、と説くようになり、多くの経営学者が、この説を信奉していることも知っております。 

私は、リーダーシップには、3つの要素が含まれていると考えています。 第一の要素は、「目標設定」です。 リーダーは、多くの人々(集団)を率いて、集団の先頭に立ちます。 「百尺、竿頭を一歩進める」と言う表現がありますが、集団の竿燈にある為には、集団に「目標」を与え、「方向」を示さねばなりません。 すなわち、「目標設定」です。

百尺もある竿の先端。 転じて、到達しうる極限。 最上の極地。

用例

然し斯様かように百尺竿頭ひゃくしゃくかんとうに一歩を進めた解決をさせたり、月並を離れた活動を演出させたり、篇中の性格を裏返しにして人間の腹の底にはこんな妙なものが潜ひそんで居ると云う事を読者に示そうとするには勢い篇中の人物を度外な境界きょうがいに置かねばならない。〈夏目漱石高浜虚子著『鶏頭』

ウイキペデイア

私が第二の要素とするのは、こうして設定された「目標を達成」することです。 すなわち。「目標達成」、または「達成のための遂行」です。 第三の要素は、そのような目標設定と達成に携わるリーダーその人が抱く価値観(道義観)です。 例えば、悪しき意図を心の抱くリーダーは、人々(の集団)を悪事へ走らせます。 

以上、私が考えるリーダーシップの三つの要素を挙げましたが、このブログでは、第一の要素を取り上げ、目標設定の為の「発想、ないし着眼」に焦点を当てることにします。  

人間は、考える動物です。 そこはかとなく、または、取り留めもなく、思いを巡らせているうちに、「ひらめく」ことがあります。 その「ひらめき」、つまり、「思い付き」が、発想の元になります。 しかし、「そこはかとなく」、とか「取り留めもなく」とは、恣意的には、自分の思考の流れを制御することが出来ないということです。

自分の思考の流れを、制御できないのとなると、誰もが、何時でも、「良い」、「優れた」思い付きに恵まれるとは限らないということでもあります。 しかも、思い付きは、その瞬間の「ひらめき」に過ぎませんから、一度ひらめいたら、その時点で捉えておかないと、すぐ消えて無くなります。 

誰でも、行動を執ろうとする場合、執ろうとする行動の目標の良否、善悪、偉大、矮小に関わりなく、とにかく、恣意的、意図的、または、漫然と目標を定めています。 目標も定めないで、目蔵滅法に行動をとるのは、気違い沙汰です。  

しかし、如何に目標を定めるに当って、見当を付けるといっても、付ける見当の適否、善し悪しは、自然に決まるものでもありません。 見当をつけるリーダーの考え方、意識の在り方が、反映されるものです。 そうした考え方、意識の在り方を決めるものは、リーダーに本来備わる基本的な価値観や道徳観、または「思い付き(ひらめき)=着想」に他なりません。 

リーダーが持つ基本的価値観や道徳観は、リーダーの人格、資質に係るものです。 他方、着想(発想=着眼)も、リーダーの基本的価値観の流れの中に沸き起こる時々の思い付き(ひらめき)です。 この「ひらめき」発生の経過を「科学的に」解明し、制御しようとした試みがありますが、この工夫については、別に取り上げて詳述します。

発想・着眼の如何が、目標の如何をも決め、優れたリーダーは発想に優れ、優れたところに着眼して、目標を定めることが出来るとすれば、 偉大なリーダーは、発想が豊かであり、着眼も卓抜していたのです。 

では、我々、凡庸の者にとっては、リーデイングは、無理な相談でしょうか? リーダーと言っても、いろいろなリーダーがあり得ます。

巷間に生活する凡庸の我々にも、日常茶飯の事象として、いろいろな機会に、仲間をリードしなければならないことも起こり得ます。 

徳川家康豊臣秀吉のような英雄豪傑が示したリーダーシップではなくて、勤め先の会社の課長や係長、町内会の会長、一家の家長としてのリーダーシップを含めた一般的な意味での、小さな集団を想定したリーダーシップが、おそらく読者が考えるリーダーシップだと思います。 

閃く、ひらめく

閃く(ひらめく)とは、ぴかっと光るという意味から、考えがふと浮かぶという意味で近代以降使用されている。 つまり古めかしいマンガで、電球が頭の上で光るという描き方をされる、それがそのまま「ひらめく」である。 フィラメントのついた電球もいまや過去の異物となろうとしているが、われわれ凡人の「ひらめき」も、すでに使い古されたアイデアであることが多い。  平安時代ごろから「ひらめく」は、稲妻の閃光について主に使われていたようだが、考えてみれ大昔、突然ぴかっと光るなんてものは雷くらいしかなかっただろうから、それ専用の言葉となったとしても不思議はない。 その後「ひらめく」は、現代の「ひらひらする」と同じ使い方をされ、『平家物語』の有名な「扇の的」の段では、船上で棹の先の扇がゆらめく様を「閃く」と表現している。 「アイデアがひらめく」といった現代の使い方は、当初の意味にもとづく慣用語だが、確かに扇がひらひらしている様子にはあまり「ひらめいた感」はなく、雷の閃光のイメージがよろしいようである。

(KAGAMI & Co.)

凡庸の人間でも、何かをキッカケに、瞬時に脳の中に浮かぶ発想が起ることがあります。 この発想を「逃さない」ことが大切なのです。

凡庸の人でも、優秀な人でも、人には、それなりに思いつくことが、よくあります。 その思い付きを目標にし、他の人々(集団)を率いて、その目標の実現を図るようにすれば、そこでリーダーシップが実現します。 他の人々が付いてこなければ、リーデイングは、あり得ません。 

大事な点は、提唱する「思い付き」=目標に他の(付いてくる)人々の賛同が得られるか否かにあります。 仮に、付いてくる人の数が、少ないとすれば、その思い付きを承認する人々が少ないのですから、その思い付きを唱える人はリーダーたる資格を持たないことになります。 言い換えれば、そのリーダーが、竿頭に掲げる「印」が、多数の意に沿わないのです。 

このように考えると、設定する目標は、必ずしも、リーダーが掲げるものではないことになります。 掲げる目標は、リーダーとか、従う人たち(フォローアー)とかに(所有されるところ)の「属人的」な物ではなく、正義とか、公平とか、平等とか、世界平和とかの抽象的、普遍的な「価値」である、と想像されます。 

目標設定とは、「価値掲げ」であり、「普遍的価値の標榜」なのです。 遠い彼方の人々が喜び、望む価値、普遍的価値、それが「目標」です。 リーダーとは、そうした大げさに言えば、人民や国民、すなわち、人々が希求する願望の達成を約束してくれる人なのです。 願望達成が果たされるか否かは、そのリーダーの「目標達成力」に依ります。 ここにリーダーシップの第二の要素を必要とする所以があります。 

日頃から欲しい、欲しいと思っている文房具、玩具、パソコン、等々(目標)を買って呉れそうな親父は、一家のリーダーとしての資格は十分で、頼もしいお父さんです。 同じように、居住する区の全てのライフラインの確実さ(目標)を保障してくれそうな候補者には、一票を入れて、区長になって貰っても間違いありません。 

 

閑話休題 
「ひらめき、とはどんな意味があるのか」年長者から話を伺いました。 ひらめきとは突然、何かのアイデアが浮かぶ子とのように思っていましたが、そうではないのです。  閃く、漢字の由来は次のようなことからです。
この漢字は、門の中に人を書きます。 門とは他人の家に入る時、軒下を潜る時の状態を指しています。 他人の門を潜る時の頭の中はどうなっているのでしょうか。 「今日の先方の呼び出しの案件は何なのだろう」、「突然、斬りかかられるかもしれない」など、家の門を潜って相手と会う時の出来事を予測して出向きます。
つまり、何が起こるかどうか事前予測して門を潜り、相手の如何なる出方にも対応できるような心構えをしておくことが、生命を守り安全を確保するために大切なのです。
門を潜る時に人は直後に起きるであろう、予測できるあらゆる事態に備えておくことが大切だとの教えなのです。 相手とどう接するのか危機をどう切り抜けるのかを考えておくことを閃きというのです。片桐ひろあき

 

 

 

 

 

 

 

 

身分(差別)意識の残滓

先に、私のブログで、日本には、江戸時代に「身分意識」を取り除こうとした試みがあったと報告しました。 それは、石田梅岩という巷間(現京都府亀岡市)に現れた偉人ですが、彼は自らを儒者としていました。 

梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。 この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。

ウイキペデイア

この人物は、京都の、商家で丁稚奉公から始めた生活を過ごした後、一家をたて、多くの人々に、後世に「石門心学」と呼ばれた理念(倫理学)を教えたのです。 彼は、士農工商は人間の格式の上下の差を示す身分ではない。 それぞれの「職分」を言うのであって、人間の「働き」の在り方を述べるに過ぎない、と主張しました。 

今朝、私は、この梅岩の主張が、破られているのを目撃しました。

私が住む老人ホームには、「夜勤」という業務があります。 夜勤は、職員が、交代で、夜中の入居者の様子を観察する勤務です。 

この勤務は、特別の勤務なので一回ごとに加給賃金が払われます。

家庭の事情(子持ち)や個人的希望で、夜勤をやらない職員もいます。 夜勤者は、定まった業務、例えば、夜勤前夜の午後4時頃に各入居者の部屋へ、洗濯済タオルを配るといった「雑務」も、その業務には、含まれて居ます。 

時々、「長」と名が付く職員が、この職務に就くことがあります。 夜勤ですから、当然、洗濯済みタオルを各部屋に配る業務も果たさねばなりません。 ところが、ある特定の「長」職員が夜勤を務めるとき限って、「タオル配り」を別の職員が行っているのです。 何故そうなのか、説明されたことがありません。  

「はは~ん、偉い職員は、タオル配りのような下積みの仕事はしないんだな! こんなハシタ仕事にすら、身分差があるんだな?」 

馬鹿正直

馬鹿正直は良いことだ。 そこには、悪意は無い。 自分が稼ごうとする作為が無い。 開けっぴろげなら、自分の損に対する恐れが無い。 正直者に誠意があるかどうかは別として、少なくとも悪意は無い。 悪意が無ければ、危害は加えない。 正直者は安心できる人。 一緒にいるなら、悪意のない、安心な人。  

黙っていると作為が、何かが判らない。 黙っているのと隠すのとは変わらない。  黙っていても、隠しても、作為が悪意か、善意か、どちらかが判らない。  

黙っている人も、隠す人も、警戒すべき人。 作為があっても、気付けない。 黙って、隠して、騙すかもしれない。 騙す人は、怖い人。 近寄れない。  

正直首(こうべ)に、神宿る。 神様は、騙さない。 頼れる相手は、神様だ。 頼りにするなら正直者。 馬鹿正直は、神様だ。

焼き鳥

テレビ放送で、中国で、今度の新型コロナ蔓延を防ぐため、人々が「蜜」なるのを禁止しようと、4人組のフェースツーフェースでやる麻雀ゲームの卓を官憲の役人がぶち壊しているのを見ました。 高価な機械式麻雀卓です。 日本で今買うなら、おそらく数十万円もするだろうと思われるテーブルです。 もったいない話です。 

私も、若い頃、麻雀をよくやりました。 私に家の近くに、別に家をもう一軒、名目上は「研究室」として、を買い、そこを根城にして悪友を誘って、徹マン(徹夜マージャン)をやったものです。 数ラウンドのゲーム中に、一回も上がらない負け放しのメンバーを「焼き鳥」と言ってからかいましたが、「焼き鳥には、ならない」と意気込んでゲームを始めるのですが、よく「焼き鳥」にされました。 4人の中の自分独りが焼き鳥だと、下手丸出しですから、格好がわるいのです。 

近頃は、世間への遠慮もありますから、老人ホームでは、(好きな人もいるのですが)麻雀は殆どやりません。 それでも、老い寂れた「焼き鳥」のような老人で一杯です。 

♪ 都鳥さえ、一羽じゃ飛ばぬ

 昔恋しい 水の面(おも)

 逢えば溶けます 涙の胸に

 河岸の柳も 春の雪 ♪

東海林太郎) 

老人となれば、どなたも脂が抜けて、骨ばっかりのカラカラです。 それでも若かりし日の思い出で、胸が一杯です。  「都鳥さえ、一羽じゃ飛ばぬ」のに、例外は別として、殆どの老人は、単身で入居しています。 夫婦で入居という幸せな人達もいますが、殆どの人はまず単身です。 老人ホームでは、こうした「魂の抜けた」カラカラの骨ばっかりの老人達が独りで、ここを終の棲家として、寂しく生活しているのです。 心の中で「昔恋しいかの人を秘め」、静かな老後を過ごしているのです。 ♪ 彼岸の柳は、夢の中 ♪