鉄道大臣

夢寐のたわごと

太々しい(ふてぶてしい)

太々しい(ふてぶてしい)
ふてぶて し・い [5] 【太 ▽  太 ▽ しい】
平然と図太く構えている。憎らしいほど,ずうずうしい。 「 - ・い男」三省堂 大辞林 第三版

この言葉の反対語を探したら、①しおらしい、と②つつましい、の二っが出てきた。  この二っのどちらも、女性に関わる言葉である。 すれば、「ふてぶてしい」は、男性に関わる言葉と言うことになる。

その様な男性が居たが、亡くなった。 自らの手で亡くなった。 可哀そうな話であった。 「森友学園」問題で、事実とは異なる記録を残す(いや、作る)ように強いられた男性である。 この人は、女性的だったのだろうか? そうかもしれない。 しかし、女性的である以上に、この人は正義漢であった。 嘘が付けなかったのである。 では、女性は、嘘をつかないか?  いや、昔から、女性には、嘘が多いとも言われる。 本当か? 

本当なのは、男性に、太々しい男が多いことである。 太々しい男は、生き残り易い。 「責任を取る」と言うだけで、切腹はしない。 このような男を、昔から、「男らしくない」と言った。 男らしくない正義漢はいない。 正義漢は、潔(いさぎよい)いともいった。 そのような、潔い「桜の花」のような男は、先の戦争(戊辰の役や日清・日露戦争ではない)で死に絶えたのか? いや、「桜を見る会」は、最近まで残っていた。

人の世は、奇々怪々である。 嘘も、百回言えば、本当らしく聞こえる。 いや、百回聞かされると、嘘を信じるようになる。 太々しい男は、そのことを心得ているらしい。 この男が、「しおらし」かったり、「つつまし」かったりする様子は、みたことがない。 男の中の男なのだ。 男らしくあるためには、戦後は、嘘つきであらねばならない。 戦争中に、男らしく死んでいった日本男児や現代のしおらしい男子に寄り添い、心からの哀悼の意を表すとともに、私も死にたい。

茶飲み友達

若かった頃、特に郷里の新制高校時代は楽しかった。 談論を風発して、語り合える友が居たからである。 今は、同年齢の人たちの殆どが、亡くなっている。 この施設にも近い年齢の人たちが何人もいるが、育ち、体験、趣味、などの種類が違うので、語り合うことが難しい。 できるのは、黙り合うことぐらいである。 

施設の職員は、入居者の面倒を見ようとするが、彼等が提供するのは、「面倒見」であって、「語り合い」ではない。 老人は、お追従や上から目線の面倒見ではなく、同じ目線で、語り合える仲間を欲しがっている。 へら、へらと語り合いを迫ってくる見え見えな「へりくだった」恰好のサービス・トークをする職員は気持が悪いばかりでなく、阿呆ずらにすら見える。

職員は、概して入居者に比べて年が若い。 若者である。 だから、年功者である入居者達を「上から目線」で面倒を見ようとする姿勢が、「生意気」である。 年功者が求めているのは、「茶のみ」友達であり、同じ目線でお話をしたり、昔のことや故郷の街々のことを語り合ったり、政治や施設管理の不適当さを詰ったり、近頃の若者の在り様にケチを付けたり、することである。

お茶が不味い。 数十人の入居者へ、一定の時間になると、一斉にお茶のサービスを行う。 一杯、一杯を心込めて、急須で入れたお茶じゃない。 こんなお茶で、友達と語り合える筈がない。 茶滓臭い薄い茶(薄茶じゃない)をガブ飲みする茶だから、「茶飲み友達」できよう筈がない。 オマケに、コロナ感染を恐れるものだから、「対面」の語り合いは、成らぬと言う。 これでは、大声で、口角泡を飛ばす談論の出来る筈がないね。 

コロナを口実にするなよ。 元々、施設では、入居者を「個」としては扱っていない。入居者は、「統計上の」数字の一つに過ぎない。 コロナが流行っても、個人は、個人らしく生きていたい。 泡を飛ばしても良い工夫がある筈だ。 それが出来ないというのは、元々、施設にその気がないからだ。 

コロナ感染防止と経済・社会活動の増強とをバランスにかけて、色々と言っているようだが、コロナは老人の生活にも関係する。 コロナだからと言っても、老人が「お茶」が飲みたいことには、変りはない。 老人は待っている。 せめて、老人に旨いお茶を飲ませなさい。 それが、談論風発とまでは行かなくとも、施設を和ませる。

有難迷惑

この施設に、私を含めて、自立者らしい人物が、数人いる。 私は、彼等の誰とも「反り」が合わない。 ともあれ、彼らが同じ様に感じているか、どうかは判らないが、「有難迷惑」だ、と感じることが数多くある。 元々、死んだ家内が配慮してくれ、今は子供たちが喜んでいるので、「有難迷惑」だと感じるのは、私の「わがまま」の所為かもしれないが、迷惑である事には変わりはない。

金を払って「介護」を購ったのだから、介護を押し付けてくるのには、それなりの理由があるのだが、私は、その多くを「お節介」だ、と受け止めている。 例えば、足(脚部分)が乾燥しているという理由で、毎日、ワセリンを私の右足へ職員が代わる代わる塗りに来るが、ワセリンはベト付くので、塗った直後暫らくは、気持が悪い。 これを毎日、頼みもしないのに、塗りに来る。 足の乾燥などは、実害をあまり感じないので、放っておいて貰いたい。

有料介護は、始末に負えない。 無理矢理に「介護」、つまり「お節介」をされるのである。 今一つ、気にいらないのは、「見回り」と言うサービスである。 早く言えば、これは「peeping Tom」、すなわち「デバカメ」である。  

真夜中、就寝中に、(人知れず)こっそり部屋のドア―を開けて、懐中電灯で室内、及び私の寝姿を照らして観察し、黙って去っていくなど、気持の悪いこと限りない。 日中の見回りだと、薄くドアーを開け、部屋を覗いていくが、偶然、目と目が合うと、覗いている職員の方でも「バツ」が悪いと感じるのか、「見回りです」と言い訳を残して、去っていく。 悪いことなら、しない方が良い。 それどころか、入浴に際しても、うら若い女性が、素っ裸の男性(つまり、私)を見守っているなど、話にならない。 迷惑だ! お節介だ! うら老いた男性の「恥じらい」を知りなさい。 

この度のコロナ騒ぎの於いて良く判ったことだが、役人は、「専門家のご意見」を参考に(従って)物事を処理しているようだが、施設にも、ナースという素人の専門家がいる。 ナースは、便利なようで、五月蠅い存在である。  先に挙げたワセリン擦り付けサービスにしてが、そうである。 ベト付くなんて、お家の事情に関わりなく、乾燥肌はいけない、と称して、構ってくれる。 こちらの言い分は、「お金を払うから、放っておいて下さい」である。

それでも、「お金を徴収している手前、サービスさせてください」、とは、阿呆な話。 親孝行な息子、娘、ご家族、の皆さん。 自分達の大切な親御さんたちが、このような残虐非道ないたぶりに会わされているのを、お忘れなく。

 

虎は死して皮を残し、人は死して名を 残す

 

標題は、「十訓抄」からの抜粋である。 十訓抄は、日本文化の産物であるから、この諺は、間違いなく日本製である。 ここで、私が指摘しようとしている点は、「名を残す」である。 「名」を重んずる事は、我が日本人の伝統であった。 例えば、「養子」を英訳すると、[adopted san」なり、「adopted daughter」なりになると思うが、この訳語と原語の日本語との意味は、大きく違う。

日本には、家督相続と言う制度があった。 相続は、「男の子、それも嫡男」が行う。 次男以下は、「部屋住み」であり、貶めて「冷や飯食い」と呼んだ。 部屋住みの男の子は、何所か、男の子に恵まれない、女の子にしか恵まれない不幸だが(封建時代の事なので、「不幸」とすることをお許しいただきたい)高禄の武家(富裕な商家でも良かった)の「婿養子」になれる機会を「虎視眈々」と狙っていた(逆玉になると、時に、出身の宗家の嫡男よりも高禄に恵まれ、身分も上になった。 

似た例としては、徳川宗家の相続人になった御三家中の紀州出身の徳川吉宗の例がある。 この例は、「名古屋=尾張とばし」の一例でもある。 近例としては、コロナ問題における「緊急事態宣言」において、関東=東京近辺県から、名古屋のカバーを避けて、福岡へ宣言のカバーを飛ばしたケースがある)。 

欧米の「adopted」は、文字通り「養子」なので、偶然は別として、家禄や財産などの付録は付いていない。  日本の「養(子)」は原則として、付録付き、いや付録以上の一族郎党に関わる一大事であった。 付録の有無どころか相続人が居ないと、家禄没収や一族断絶の憂き目にあう恐れまであったから、男系相続人の居ない「宗家(本家)」は、親族どころか一族郎党にとって、大迷惑であった(例えば、大名に相続人が居ないと、家来、家来の家族、御用達業者、諸々にとって、迷惑この上無かった)。 このように、お殿様や大富豪になると、お家断絶は極めて広範な範囲の人々に迷惑を掛けることになった。

ちなみに、代表的な婿養子として上杉鷹山(うえすぎ ようざん:初代は、上杉謙信)を挙げることが出来る。 初代は、新潟の推定120万石の金沢の前田家にも比すべき大々名であったが、二代目上杉景勝前田利家徳川家康らと共に、豊家五大老の一人)が、大阪の陣で、豊臣方(石田三成方)に与(くみ)して徳川家康を敵にした為、米沢へ転封され、録高も30万石へ減じられた。 上杉は、豊かな土地、新潟の120万石から、痩せた土地の米沢30万石へ転封され、その後、「お国返上」の状態へ疲弊して追い詰められたが、九州宮崎の高鍋藩主、秋月種美の次男、治憲が、疲弊、衰退しつつある上杉家へ養子として招かれて、上杉の「名」を継ぎ、その結果、上杉家を立て直して、上杉鷹山と号し、天下の名君と呼ばれるほどの大名になった)。

封建の時代には、「名」こそ「家」、更には、「自分」の象徴であった。 従って、「名」を守ることは、自分のみならず、「家系」を守ることでもあり、己独りの個人的問題ではなかった(だから、武士は名を惜しみ、名誉を貴んだ)。 また、当時は、「男系」が原則であったから、「男子無き家」は、お家断絶の恐れがあった。 大げさに言えば、「名」は、複数の人たち、つまり「家=公」に関わる事であり、己一個人の「私」の問題ではなかった。 「滅私奉公」とは、己を次に、公(家)を先にすることであり、「従って、名を守れ!」は、日本男児の本懐であり、生涯の一大事であった。

これこそ日本人の「名誉」の基本であり、社会(公=家)へ尽くすことこそ、男女を問わず、日本人が抱くべき基本的倫理であり、良心であった。 「名誉」は、幼童の頃より、男女を問わず、日本人の心の底へ叩き揉まれた社会道徳(人間関係)の基本であった。 

他方、この「男」主体の封建社会では、男を産まぬ嫁は、その家を去れと言われた。 元々、女の子は、生まれた家を去り、他家へ嫁いで、他家の子孫(名)を継ぐ役割を担っていたから、女は、女なりの使命を、元々、(不本意だっただろうが)担わされていたのである。 娘を他家へ嫁がせて、その他家の役に立たぬ女子(出戻り=産まず女)は、出自の家の親の面目にも関わる一大事であった。 嫁が、男の子を産むと、その嫁の「手柄」とされ、親族はもちろん、隣近所、遠くの知人までが、これを祝った。

時代は、流れて、過去のこうした因循姑息な思想は、消えつつあるが、しかし、老人ホームの中では、空気は相変わらず淀んでいる。  仲間(?)の老婆たちは、嫁さんや息子の家族に「男の子」が、産まれたと言って喜んでいる。 もう、「名」はもとより、「なりふり」も構わなくなっているようだ。 日本男児たる矜持も、もうあかんね。 名誉や恥は、泡沫の夢と消えて行く。 ♪ 芸者ワルツで、島田も揺れる ♪ なんて、古めかしい大正・昭和初期の日本男児は、先の戦争で、死に絶えたようだ。 仮に運よく生きているとしたら、年齢は、おそらく推定92歳以上だと思う。

時代は変わった。 浅はかで、馬鹿な若者さんよ。 これからは、IT、AIだよ。 デスクワークも、テレワークになって行く。 私の様な過去の生き残りでも、スマホは「ややこしいから、あかんけど」、パソコンぐらいなら、なんとかこなせるがな。 時代が変われば、文化も変わる。 文化が変われば、言葉も変わる。 言葉が違えば、交流できん。 交流出来ねば、関係は途絶。 ウザイ老人は孤独だが、「死なずに、消えゆくのみ(松笠)」。 何しろ、寿命が100歳、いや、センチュリオンの時代が来ているから。

浅慮遠謀

前向上
「絶対にそうか」、と念を押されると少々ビビるが、小生の浅見によれば、生まれたての赤ん坊の頭の中は真っ新で、何も入っちゃいない。 つまり、何も知らない状態で生れてくるから、人が「知っている」と言うことは、全て見様見真似で後から教わったことで、自分の力で考え出したことなどありはしない。 もっとも、「物の弾み」と言うことがあるだろうから、運のいい奴は、他人から教わったのではなくて、神様から偶然に教えて貰ったこともあるかもしれない。 要は、「神慮」はあるにしても、「深慮」などありはしない、と言うことだ。


本論
NHKのある番組で、夜間尿は、足のふくらはぎに昼間に溜まった水分が、夜になると出てくる水だ、と報告していた。 従って、その治療法は3つ、まず、昼間、足に「弾性(着圧)スットキング」を巻いて、水が溜まるのを防ぐ、次に、昼間、足を少々持ち上げて寝てしまわずに、15分間ほど横になる、最後に、晩酌の「つまみ(一般に塩辛い)」を控える。 

江戸時代に、「茶運び人形」なるカラクリ人形が作られた。 巧妙なカラクリで、現代のようなITやAIの助けをかりることなく、電気じゃなく、手の力だけで動く。 その仕組みは、分解して調べてみた訳じゃないので、詳しくは述べられないが、歯車で力を次々と伝えて行き、最後に「お茶。どうぞ。」と言う仕組みになる。 観念的には、仕組みが判るような気がする。 

① 「ふくらはぎ」に水が溜まる。 ② 弾性ストッキングで、締め付ける。 ③ 塩分を控える。 えぇ、それから?夜間尿が減る。 水洗の水を使わない。 水道料金が節約できる。 ははん、なるほど! この伝で、他の事もできるな? (ここで、断わって置く。 以上の元々の出所は、NHKの番組である。 

私の知恵じゃない。 ちなみに、私は、ある老人ホームに住んでいる。) そこで、他の仲間も、この伝でやれば、80数人以上の入居者も、夜中にそう度々起きる必要がなくなるじゃないか!  水道料金節約どころじゃない。 いわゆる、社会的(そして、経済的)効果もあるわけだ。 (ここで、今一度念を押す。 副次的効果は、無数に派生する可能性を持っている。 

NHKさん、貴女(貴方)には、「版権」などと言うケチなものを請求する権利はないよ。 あの有名な大大先輩アルキメデスさんさえ、「梃子使用料」は請求していないよ。 

人間の社会では、「人間関係」が大切だと言われる。 本当か? 「人間「無」関係」と言うのもあり得る。 つまり、ノー社会だ。 しかし、社会を形成するには人間相互の「関係」が必要になる。 相互に「関係できる事(能力と意欲がある事)」が、大前提なのである。

「孤独」と言うことを言う。 老人は、「孤独化」し易いとも言う。  これを言い換えると、老人にとっては社会形成が、困難だと言うことになる。 さらに、手っ取り早く言い換えると、老人には仲間が出来難いということにでもなるのだろうが、と言うことは、老人社会形成には、誰か(おそらく、若者の)の手助けが必要なのである。 

孤独化し易い老人は、独りでは、いつも、永遠に「独り」なのである。 そう、何時までも「独り」なのである。 しかも、仲間は次々と減って行く。 最後には、無(亡)くなる。

適合

適合

何事にも、適否の問題がある。 特殊な人は別として、通常(健常)な男女には、「相応しい」相手がいるものだ。相応しいとは、特定的に、特殊的に「合う、合わない」ではない。 概念的に相応しいということだ。 

私(ちなみに、私は90歳の老爺である)にも、世間や仲間が、「年頃」を言われた時代があった。 私も、年頃に、好いた相手を見つけて結婚した。 世間の目には、おそらく、お似合いの相手同士であったのであろう。 十数年前に、その家内を亡くした。 現在は、お似合いの相手は居ないが、「概念的に」相応しい相手を欲しいと思っている。 

しかし、年を食っていると、知情意にも、磨きが掛かっている。 想定される相手にも、相応の磨きが掛かっていることが望ましい。 が、不幸なことに、年と共に、人口も減るから、知情意に磨きのかかった老婆となると、ますます人口が少ない。 殆どの私の年齢にに相応しい老婆は、この世には居ない。

少ない人口の中から、概念的に相応しい相手を見つけることは、老婆人口も相対的に少なく、難しい。 しかし、如何に相手とする候補者が少なくとも、健全な人間である限り、色気は失せない。 世間の下種な者どもは、斯様な色気の事を、「助平根性」などと見下すが、念の為、断わっておくが、私には、その手の興味は、枯れている。 

先日も、旅行の餞別に、「コンドームとバイアグラ」をセットにしたものを、友人に贈ると言う洒落た男のことを報道しているのを、テレビ番組で見たが、私は、そこまで洒落てはいない。 くどい様だが、私は枯れているのである。 が、相応しい相手には、興味がある。 

適合は、人間の生存には欠かすことの出来ない重要課題である。 左様、生存である。 その証拠に「適者生存」と言う概念もある。 「適か、不適か」は、相対的概念であって、「相手」無しには成立しえない。 私も、自分の命を長らえるために、例え観念的ではあっても、相手を探すことにする。 目下のところは、子供の頃憧れた映画女優とか、京都の祇園の鴬(うぐいす)芸者歌手とかの、ヴァーチャルな歌声や映像で我慢している。

先生、専門家と言う「隠れ蓑」

世間は、ゴー・ツー・トラベル(キャンペーン)で、大トラブルになっているらしい。 今朝のテレ朝である衆議院議員参考出席のもと、議論を展開していた。 論点は、「キャンペーンが時期尚早ではないのか」と「何故、東京が除外されるのか」の2
点であった。 

この論点を、私なりに、更に煮詰めれば、「コロナ感染防止と経済回復」のどちらを優先させるかである。 私見は、明白である。 コロナ感染防止の方が優先する、である。 元々、人間が存在しなければ、経済はあり得ない。 人間が先であることは、議論を待たない。 現代の世界第三の経済大国は、戦後(応仁の乱や戊辰の役ではない。 第二次世界大戦である)、日本人が築いたものである。 

経済は、日本人が存在する限り、たとえ現代の日本人にとって壊れてしまっても、子孫が存在する限り再建できる。 従って、日本人とその子孫は、生存させねばならない。 コロナ問題は、単なる観光業の問題ではない。  コロナ感染問題は、後世の日本人を含めた日本人全体の問題である。

政治家たちの説明を聞いていると、問い詰められた場合、先生や専門家へ責任を擦り付けていることが判る。 政治家達は責任を取らないが、最終的に責任を取らされるのは、日本国民全体であり、その子孫である。 先生や専門家達は、政治家の隠れ蓑に使われているだけで、国民に対する責任を直接とっているわけではない。 

コロナ問題のような日本人にとっての国民的一大事が起こった場合には、本来の主権者である国民が立ち上がって決断を下すより、他はない。

落書き

今朝のテレ朝の報道で、鎌倉の願興寺で、修理か、何かのために、寺の一部を解体したところが、古い板壁に当時の旅人の「落書き」らしいものが書かれているのも発見された、と言うのである。 

添書された日付を見ると、なんと織田信長の時代のものである。 報道画面に現れたその寺の住職らしい人物が、「今は、落書きはいけませんよ」と言っていた。なあんだ、ただの落書きだって、長い年月の間、保存されていると、価値がでる。 愚かな私の亡骸でも、後世に発見されると、国の天然記念物にされるかもしれん。

子供たちよ。 間もなく作成する予定だが、仇やおろそかに、私の死骸を扱うなよ。 燃すなんて、話にならんよ。 俺は、天下の大宝だぞ。 ままで良い。 そのまま、そのまま。 場所? そこまで、俺の責任にするか? 死人に口なし、と言うじゃないか。 死人に責任なしだ。

鎌倉は古い町だから、いろんな古いものが見つかるなぁ。 この町を、掘り起こせば、何所を掘ろうとも、お宝で一杯に違いない。 いや、いや、別に掘らなくとも良い。 鎌倉の道端に落ちているガラクタでも、鑑定如何で、天下の大宝になるかも知れんよ。 そういえば、今度のコロナ騒ぎだって、大変な遺宝を後世に残す結果になるかも知れん。 

事実、ある有名レポーターなどは、古来からの感染病の歴史を説明しながら、飯を食っているよ。 物じゃなくて良い。 情報だけで、飯が食える。ところで、私の家は鎌倉の七里ガ浜にあるが、願興寺なんて、どこにあるのかな?

浅はかな疑問

確か、知、情、意、と言ったな。 で、この知情意は、それぞれ「何なんだ」。要素か? いや、しっくりこない。局面? これもダメ。 部品? ますます、ダメ。 ちょっと難しい哲学的表現だが、「範疇」?  うん、これなら、何とか行けそうだ。 それにしても、馬鹿々々しい疑問を持ったものだ。 

おまけに、この90年もの間、こんな馬鹿、馬鹿しいことを、疑問も感じないで、何と無く理解したつもりだったのだ。 憎らしいから、もう一度繰り返してみよう。 知・情・意だ。 もう、子供たちに、知情意が、どうのこーのと、お説教を垂れるのは、止めにしよう。

考えてみると、こうした普通の事(?)で、普通に使っている言葉や観念が多いな。 といって、人間世界の森羅万象の全てについて、一つ一つを理解していないと、先へ進めないとなると、文字通り、ニッチモサッチモ(二進も三進も)いかんな。 いや、おそらく、知らないなら、知らないままで、過ごしていることも多いに違いない。そうでないと、人間は、生まれた時から窒息してしまう。

でも、多くの人間が、諸国の大統領や総理大臣を始め、陋巷の庶民の果てに至るまで、とにかく、飯を食い、糞を垂れ、鼻水をすすって、窒息もせず生きている。 これは、神仏のお計らいか? 大自然の営みか? 大宇宙の為せる業か? そういえば、宇宙の果ては「ある」とは信じるものの、その果ての向こうは何だ、と聞きたくなるのが人間の性(さが)だ。 こんな因業な性を人間に植え付けた宇宙が恨めしい。 ちなみに、「その先は?」と聞くように、人間の性が出来ているとすれば、その「さが」は、知情意のどれに含まれる?

90年間も、飯(おから飯、芋混ぜ飯や豆カス飯のこともあった。 いやいや、お粥や飯無しもあった。)を食ってきた。 未だに、知情意の「知」が十分じゃない。 で、「情」け無い(ところが、情けはあるつもりだ)? まして、これじゃ、この世でどうのこーのしようとする「意」が働くわけがない。 「意気消沈」とは、この事か? ともあれ、未だに、知情意の厳密な意味が判らず終いである。 あぁ、浅はかであった。 浅はかな一生(まだ終わってはいないが)であった。

♪ 進軍ラッパ聞くたびに、涙が浮かぶ俺の顔 ♪ 遠い昔のことだなぁ!

合理性

合理性

合理性(ごうりせい) の意味
1. 1 道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。
1. 2 むだなく能率的に行われるような物事の性質。「合理性に欠ける役割
分担」 出典:デジタル大辞泉小学館


今まで、不思議に思うこともなく、「合理的」や「不合理」と言う言葉を使ってきた。 しかし、合理の反対は不合理かもしれないが、合理、不合理、以外にも、別のカテゴリー(範疇:はんちゅう)に属する観念が存在することに気付いた。 世間では、知、情、意と言うことを言うが、「情的」であることは、必ずしも不合理ではない。 同様に、「意」的であることも、不合理ではない。 

情や意は、理(知)とは異なる範疇(カテゴリー)の概念である。 人の心は。知、情、意の3つの範疇の観念を併せ持つと言われる。 だから、♪口でけなして、心で褒めること(演歌:お嶋、千太郎)♪可能になるのであろう。 それというのも、知の範疇と情の範疇が異なるからである。 

異なる範疇の観念は、異なる扱いをしても、矛盾は起こらない。今思い出してみると、汗顔の至りに思うのは、学生時代より壮年、いや、つい先ごろまで、他人の主張や意見を聞くたびに、「それは、不合理だ」、「お前の主張は、合理的ではない」などと、自分の無知に気付かず、声高らかに論じてきたことである。 

時は、すでに遅い。 他人から、高齢者と呼ばれるこの年になって、このようなことに気付くようでは、「汗顔も汗顔、既に、汗みずくになって」しまっている。 「綸言(とまでは、己惚れてはいないが)汗のごとし」と言う。 もう、流してしまった汗は拭えない。

向後、自分を、合理主義者である、と主張することは、控えることにする。 十分に、「情的」でもあるからだ。 勿論、僭越だが、「意的」でもある。 「両々、相待つ」と言うが、私の心は、3様に入り乱れている。 私も「人だ」と確認して、安心することにする。