鉄道大臣

夢寐のたわごと

UNITED BY EMOTION

この表題の言葉は2020年東京オリンピックに掲げられた標語だそうだが、今一つ掲げられている標語と考え合わせると、常識的に考えて不可能を目指しているように思われる。 今一つの標語とは、「多様性と調和」だそうだが、人間は、基本的に異なるものには、違和感を持つ。 人間の感性が、異なるものを除こうとする傾向を持つからだ。 

このような人間の本能を抑えて異なるものと調和するには、理性の働きが必要になる。 言い換えれば、2020年東京オリンピックは人間の「理性」へ訴える世界の各国、各民族、各種族のスポーツの祭典だと言うことになる。  

最近は、「国際(国別)」よりも、「グローバル(地球的)」を語るようになってきている。 民族・国民間の相違と争いを越えた地球上の各種族の人類としての一体化が求められているからである。 国家、民族は、もちろん種族にこだわる時代は、過ぎつつある。 多民族を「超えた」、一人類の時代が、すぐ傍まで、訪れている。

異常

異常は、異常です。 一枚の「木の板」を想像して下さい。 その板を、手でスゥーッとなぞってみて下さい。 何か異常はありますか?

ささくれだっていますか? 何か他に問題はありますか?  

事が正常に進んでいる時には、人は気付き難い。 安穏なら、安穏無事に、何事も無きかのように暮らす。 異常なことの動きに気付くのが、人間である。 さもないと、この世の自然淘汰を潜り抜けられず、生き残れない。 人間は、栄えている。 勝ち残っている。 事の異常に、敏い(さとい)からである。 

人間は、事はもとより、仲間同士でも、異常に気付き易い。 これが人間の性(さが)である。 ケチ付け合って、社会を作っている。 ケチを付け合うのが人の世で、異常事態の無い社会は、ありえない。 

寛容は、理知の産物であって、情的なものではない。 人間は、「情」に流され易く、「理」を失うことが多い。 「血が、頭へ登り易く」気が沈めずに、暴言乱源を吐き、暴力を振るい易いのが、人間である。 その結果として、自然界を生き延びてきた。 

寛容を語る人は、静かに椅子に安楽に座っている人。 失言し、暴言を吐く人は、頭を含めて身体全体に血が巡っている人。 腹が立ったら、立ち止まり、ユックリ座って、考え直せ。

生身Ⅱ

人間には、5つの感覚(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)が備わっていると、先のブログで確認しました。  生身の人間は、通常、この5つ全部が使います。 そうして、感覚を「立体的」に、研ぎ澄まし、喜びや悲しみ、怒りや落胆を感じます。 テレビを見るときは、視覚、聴覚、それに残念ながら、錯覚を使います。 

前回のブログ「生身」では、家庭のテレビや後日の記録写真による本物の鑑賞は、本物を冷凍物や缶詰で楽しむのと変わらないとも述べました。 パブリック・ビユーイングは、冷凍物を業務用で仕入れるに過ぎません。 いずれにしても、外食は禁じられているのですから、この方式が取り止めなっても、驚くには当りません。 

政府・行政のお偉い方々は、人間の五感は、全部の感覚が総合的に働いて、相乗的に効果を上げることを、ご存じないように思えます。 いや、知らないわけではないが、コロナ感染拡大が、そのように、せしめているのだ、と仰る向きもあるでしょう。 しかし、それは自業自得と言うものです。 コロナ感染拡大防止の手当てが遅すぎたからです。  

新型コロナが、日本人の五感を麻痺させたのではなくて、対応の惑いが、五感麻痺の原因のように思えます。 為政の「おそる、おそる」のオッカナビックリな「手ぬるく、おずおずとした姿勢」が、新型コロナの機先を制する戦術を鈍らせたのではないか、と思えま

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孫子・作戦に「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを賭ざるなり」とある。

す。 孫子も「兵は神速を貴ぶ(ゆっくりやって、上手く行ったためしはない)」と言っています。 マキャベリも「慎重であるより、果敢であれ!」と言っています。 もちろん、合理的エビデンスに基づいた決定が前提ですが、日本の為政者のやり方は「情」けないばかりで、合わせるべき「理」は一向に見えません。 端的に述べましょう。 「無観客」では、感激は全て「隔靴掻痒」の二番煎じです。 日本人は、「場」を提供しています。 その場におられないのでは、「損」も「損」、大損です。  肌で感じるオリンピックこそ、本当の東京のオリンピックです。

生身(なまみ)

人間には、5つの感覚(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)が備わっているとされます。 生身なら、通常、この5つ全部が使えます。 また、使います。 テレビを見るときにや、視覚、聴覚、それに残念ですが、錯覚を使います。 

今回の東京オリンピックでは、「パブリック・ビユーイングも危ないから、家庭でテレビで代替鑑賞しろ!」とのお上からのお達しですが、「それや、聞こえませぬ、忠兵衛様!」と言いたいね。 いわゆるバーチャルは、冷凍物です。 「記録写真」は、缶詰です。

国民は新鮮な「刺身」が食べたいのです。 

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生身の人間とはどんな人間ですか?意味が分かりません。

ベストアンサー  (このベストアンサーは投票で選ばれました)

「病気」もするし、「ケガ」もする。 「泣く」こともあるし、「怒る」こともある。 ・・・・・・

ロボットでもないし、サイボーグでもないし、「聖人君子」でもないよ。 「喜怒哀楽」があるんだよ。

出典:ヤフー知恵袋

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生(なま)の競技が見られると、国民こぞって、待ちに、待っていたのに、それも一年延ばしで、中途半端どころか、冷凍物、缶詰、の競技で満足しなさい、では、「聞こえません!」。  

悪いのは新型コロナや変異型? 本当かな? 英国を見なさい。 英国首相の文字通りの大「英」断。 全ての規制、抑圧を取り除くと、発表している。 テレビ画面では溢れるように、ビアーホールも満杯になり、国民こぞって、てんやわんやの大騒ぎ。 伝え聞くところによると、この規制撤廃の大英断は、「感染者は増えても、重篤者や死ぬ人は少なくなっている」という合理的根拠に基づいて下されている。  

我が国の場合は、如何? 端的に、文字通り「イカン」。 専門家に事寄せて、あれやこれやで右往左往の大騒ぎ。 で、お手前は、何を為さっている? 生身の国民には、他所の国から買い求められたワクチンを打つだけの頼りなさ。 合理的? いかんせん、何処にも、合「理」の影も形も見られない。 「情」がある? 嘘行っちゃいけない。 情けもないから、「情けない」と言わざるを得ませんね。 

合理というのなら、事の初めから、PCR検査を徹底して、「犯人」を突き止め、先手々々の対策を講ずべきであった。 にも関わらず、閣僚諸侯は、専門家の意見は聞いた振りはしたが、実は、聞き流して、都合が悪いと、専門家の所為にした。 専門家には、責任はありません。 彼等は、単なる「助言者」で、責任は、あなた方にある。 

国民が、生身揃いだ、と言う点を見逃して、己らは、冷凍物や缶詰で、国民の腹を満たそうとするのは、卑怯と言うか、無能と言うか、何とも言いようがない。 

国民の選良・代表として、自分の頭で「考えなさい」、地方、中央官僚、議員、大臣、諸閣下殿。 給料や歳費目当てでは、務まりませんぞ!

専門家Ⅲ

専門家とは、特定の課題や事柄に興味を持ち、その課題や事柄を集中的に深く探究して、結果として得られた知識・知見を保管して、世間へ報告したり、応用したりする(できる)人。 

この専門家の定義は私が考えたものですが、この定義に照らすと、この度の新型コロナ感染問題については、日本の政治家は、明らかに医学の専門家の活動(報告と応用)の邪魔をしています。 彼等の性質(たち)が悪いのは、専門家の意見を聞くと言う名目を借りて、専門的見解の世間への応用を妨げていることです。 この名目借用は、彼等自身の保身に役立つのみならず、文字通り致命的な感染拡大という悪事を促進する、許せぬ悪事です。 

元々、専門家は、特定分野の「手段」に長けていますが、その分野における「目標設定」には関わりません。  目標設定は、総合職者、例えば、内閣なり、企業なり、機関なりの最高責任者が担当するものです。  

戦争においては、参謀、つまり、専門家がタクテイクス(作戦)を担当し、勝敗の責任は、総司令官が担います。 総司令官は、結果(勝敗)の責任を担うので作戦の最終「決定」には関わりますが、作戦の計画の進め方には容喙せず、参謀に委託するのが原則です。  

作戦計画が未完成の途中の段階で、総司令官が計画の在り方に容喙すると、陣立てに混乱が起こり敗戦に繋がります。 昨今のコロナ感染対策における参謀(専門家)の活用にも、同様の混乱とミスが見られます。 コロナ感染拡大防衛大作戦では、敗戦も真近です。

起死回生の策としては、初心を取り戻すしかありません。 

呉越同舟ならぬ不承不承の同舟の友として、南無阿弥陀仏

 

美学

「美」に対する意識は、誰もが持っています。 その意識を強く表す人とそうでない人との違いはあるようです。 また、美意識そのものの内容は、大きく言えば、文化の相違、一般的には、個々人の教養のレベルを反映するようです。 いずれにしても、美意識も「意識」ですから、これには個人差があります。 

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美意識(びいしき)

 美に関する意識。美しさを受容したり創造したりするときの心の働き。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

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美意識が、文化を反映すなら、国民性や伝統をも反映するはずです。 例えば、日本には、歴史的に武家文化が、長期にわたって、日本文化を支配していました。 しかも、文化ですから、生活の隅々、生活の態様、思想の在り方、などに反映されます。  

日本人の世界では、武家文化が支配的であったため、武士の生活態様、例えば、重大な事柄の約束にあたっても、「武士に二言はない」と、文書を交わすこともなく、口約束だけで、「契約」を交わしたりしました。 その結果、たとえ、ばんやむを得ざる事情による破約ですら「切腹」といった悲劇に繋がることもありました。  

そうした心の姿勢が美化されて、武士の美学を産み出し、今日の時代小説の種になったりしています。 また、この武家文化の流れを汲む明治、大正、昭和、そして、一部の老人には、現代においても、武家の美学が残っています。 先の戦争では、「撃ちてし止まん」の気組みで勢い立った国民、決死の覚悟で敵陣に突入する「航空兵」、など、侍めいた悲劇が、最近まで数々起っていました。 

このような場合、「死の覚悟」は美学でした。 アラブの信仰者のように、決死の覚悟で、ニューヨークのスカイ・スクレイパーへ突入したのもそうした覚悟に基づいていたと想像されます。 熊谷直実も、キット、心中に哀れみを感じながら、武士の誉れと人情との板挟みになって、僅か17歳の美少年平の敦盛の首を挙げたのです。  

これは、私の勝手な想像ですが、西洋人のレデイ・ファーストの習慣や婦人が席を立ったら、すかさず自分も立つ礼儀も、西欧風の中世に由来する「剣士」の美学だろうと、日頃、思っています。

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美学(びがく):aesthetics

 美の本質美的価値美意識美的現象などについて考察する学問

 美しさに関する独特の考え方趣味

デジタル大辞泉

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自分の「死」に繋がるような大仰な美学でなくとも、日常生活の中に、人それぞれの美学があると思います。  美学は、清潔であり、清廉にして潔白です。 美学を感じる限り、そこには、当人にとっての「心の潔さ(いさぎよさ)」あるに違いありません。 

金で「選挙票を買う」不潔さや「目的のためには、手段を択ばない」アザトサとは、美学からはかけ離れています。 たとえ、最高の身分と権力を得てようとも、詐欺めいた生活態様、他人を犠牲にした生活に塗れている日常と共にあるその身分や権力は、不潔です。 美学は結果や方法にあるばかりでなく、日常の生活態様と共にもあります。 

獲得された金メダルには、美学はありません。 演歌:「柔」の冒頭で歌います ♪勝つと思えば、思えば負けよ~♪ 美学は、金メダル獲得に至る努力にあります。 

死に美学はありません。 あるにしても、悲壮さと悲しみのみです。 死に向かう苦悩には美学があります。 

参画

オリンピックも例外ではない。 「参画」することに意義がある。

テレビであの嬉しそうなトーチ搬送者の顔を見てごらんなさい。 彼等は「意義」を感じているのです。 意義は、参画から生まれます。 従って、その参画は、出来る限り「生」のものが良い。 いかに、近代技術が発達したとはいえ、ヴァーチャルなものは、やはり「偽物」。 新鮮な、自分の肌で感じた「生」の体験が、本当の参画。 

2020年東京オリンピックは、一年先延ばしした。 これは良かった。 しかし、コロナに先手を取られた。 コロナの力を軽く見たのが間違っていた。 コロナ対策に遅れたのは、政府の大失態。 

全ての人は、「新鮮」を喜ぶ。 自分第一だからだ。 自分の肌こそ懐かしい。 オリンピックも新鮮が良い。 パブリック・ヴユーィングやテレビ鑑賞も、その限りにおいて、冷凍物と変わらない。 生を味わうのは、アスリートだけ。 

アスリート第一か、国民第一か、安心・安全第一か? 為政者は辛いね。 私は、内閣総理大臣でなくて、良かった。 大谷翔平宮本武蔵のように、国民と世界のアスリートの両方を、手玉にとれれば良かったのに! 

金メダル

このテーマについては、以前にも私のブログで発表したと思いますが、東京オリンピック開幕が後5日と迫って、総理大臣をはじめ、多くの日本人が、獲得できる金メダルの数を数えている今日、今日「オリンピックは、参加することに意義がある」の標語を再確認して貰おう、と思う次第です。 

「結果、良ければ、全て良し」の精神は、日本の伝統に背くのです。 「勝てば、官軍」の精神は、日本の武士にあるまじき、卑屈な奴隷根性です。 金メダルの数もさることながら、「綺麗に」金メダルを獲得することが、日本的なのです。 大切な点は、「綺麗に」にあります。 「武士は、食わねど、高楊枝」で見えを張るのが、日本の武士の姿です。  

結果は、「瞬間の」出来事です。 だが、結果に至る過程は、長期にわたる努力を重ねたものです。 オリンピックは、重ねた努力の頂上に輝く祭典です。 祭典は喜びましょう。 さらに、その祭典に至るアスリートたちの努力を誉めましょう。

軽薄

軽薄な人の特徴は? 具体的に考えます。 西郷隆盛勝海舟は、官軍による江戸の町の総攻撃を防止すべく、会談を行ったと伝えられています。 西郷は薩摩の人で印象的には、「鈍重」、勝は、江戸っ子で、印象的には、シャキシャキ、ペラペラで、どちらかと言えば、軽薄だと思います。 ここで余談ですが、この二人の「会談」は、文字通り怪談です。 薩まっぽの薩摩訛りの言葉と江戸っ子の切れた言葉とで、よく会談ができたものだ、と、私は、常、日頃から、この話、嘘ではないかと、疑っております。

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軽薄(けいはく)  

 言葉や態度が軽々しくて、思慮の深さや誠実さが感じられないこと。

  また、そのさま。 「流行にとびつく軽薄な男」「軽薄な口調」

 人の機嫌をとること。 また、その言葉。 おせじ。 ついしょう。

 物が軽くて、うすいこと。 また、そのさま。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

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ホンなら、関西弁で行きまっせ。 大阪漫才の芸人は、口が軽いと思われとりますが、そうやないと商売になりまへんがな。 結構、口の重い人もいるようです。 十人十色、如何に関西人とはいえ、どもりの人は別として、寡黙で、重々しく振舞う人も、中にはいるのです。 

口は減るものと考える寡黙派は、口ならいくらでもと考える軽薄派を軽蔑します。 関西を代表する大阪人は、しばしば、大阪商人と軽蔑され、警戒されます。 蝿じゃなくとも、手をこすり、脚までこするどうか判りませんが、身を摺り寄せてくるおべっか者には、つい警戒心が働きます。 

寡黙派は、こうした「追従者」を傍へ寄せ付けないように苦労します。 苦労するどころか、積極的に撥ね付けます。 気持ちが悪いのです。 おぞけ振るうのです。 本能的に「毛嫌い」してしまうのです。 これは、「生理的反応」ですから、差別でもなければ、「何とかハラ」でもありません。 ただただ、無性に嫌なのです。 

その昔、といっても75年ほど昔、私は、(旧制中学校)の部活では弁論部に属していました。 今日なら、コロナ感染で嫌われるであろう「口角泡、つまり唾、を飛ばして」檀上から、同窓の仲間に、語り掛けたものでした。 これでご推察頂けるように、私は軽薄派の重鎮(?)でした。 従って、「ダンマリ助兵衛」を大いに、軽蔑しています。 

翻って、これはやむを得ぬ仕儀であったのかも知れませんが、西郷隆盛は、奄美大島への流刑中、島妻、愛子、を娶っています。 愛子との間に、子供を二人もうけました。 現代の目でいえば、愛子は「妾」です。 西郷を助兵衛だ、と軽蔑せざるを得ません。 

寡黙であることと謹厳実直であることとの間には、必然的な関係はありません。 軽口を敲く、真面目な人もいます。 寡黙で、嫌らしい人物もいます。 

 

 

身勝手

30万戸が停電しました。 またしても、10万戸停電です。 「罪を憎んで、人を憎まず」。 従って、責任者とおぼしき人は、特に、上級者は、家族の為に、キチンと給料は貰います。 体裁はさておき、日本人も「故障を悔やんで、人を追求します」。 摘発された人は、減給されます。 

人は、時には「天」です (♪天に代わりて、不義を討つ~♪)。 原因は落雷です。 天は、罪を犯しませんが、鉄槌は下せます。 人は、ミスを犯します。 鉄槌には、抗らいようがありません。 易々として、忍ぶのみです。 人は堪えるので、鉄槌は下せます。 

日本人は、耐えます。 要請や不遇にも、応えます。 もちろん、不適切にも、耐え、忍びます。 「故障に苦しんでも、誰をも追及しません」。 見逃します。 「罪を憎んで、人は憎まない」からです。