鉄道大臣

夢寐のたわごと

さすが民主主義

江戸幕府崩壊の寸前、その後日本国(当時は、日本国は正式には、国として、内外で認識されていない)なったと地域には、およそ250の「藩」が存在した。 各藩は、その地を地域とする独立した「邦(くに)」で、国境を超えると、その地域の大名の統治権は及ばなかった。 

この小邦が分立した状態を欧米に倣って、天皇を首長とする近代国家へ統合する試みがなされた。 その期に、併せて伝統的な「封建制」を打破して、自由主義国家を形成することになった。

♪宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな♪ の軍歌と共に掲げられた「錦の御旗」が、近代国家成立の象徴となった。

徳川幕府は、1857年に政権を天皇へ奉還(大政奉還)したが、この時、日本国は欧米諸国に拮抗し得る自由主義的(民主主義的)な一近代国家と誕生した。 この天皇制導入を嚆矢として、日本国民は、「天皇陛下の為に~」を掲げて、諸国難に赴くことになった。

日清戦争日露戦争第一次世界大戦、太平洋戦争、を通じて多くの国民が「天皇陛下のために~!」を叫んで死んでいった。 太平洋戦争前は、天皇は、「神」として祭り上げられて、神仏に等しい格を与えられた。 「天皇陛下のために!」は、どの国民も抗う(あがらう)ことのできない「名号」となった。

名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号をさしていう。 名をもって号(さけ)ぶという意味を持つ。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。

出典: 『ウィキペディアWikipedia)』

太平洋戦争終戦(敗戦)と共に、天皇は日本国の象徴となり、日本国民に天皇尊崇の気風は残った反面、民主主義思想の導入と共に、欧米風の主権在民の思想も導入され、「名号」は「国民にために~」へと替えられた。

現在の政治家たちが唱えている名号「国民のために~!」は、戦前の「天皇陛下のために~!」と、異なるところはない。 何しろ、崇めるべき対象が、「天皇」から「国民(在民)」へ変わっただけなのである。 この名号には、誰も抗うことはできない。 極論すれば、「国民の為に~!」を謳うことは、念仏を唱えること異なるところはない。

政治家に求めるところは、念仏は兎も角、「国民」の為の実を挙げることである。 いかに、権益・利益が目の前にチラつこうとも、政治家なら「国民の為にならないこと」を目指すべきでは無い。

担当(たんとう)

担当とは、「割り当てられた役割」のことである。 多くの役人は、担当にこだわる、と誰かが言った。 私もそう思う。 役人以外にも、与えられた役目にこだわり、俗にいう「融通が利かない」人がいる。 仕事の性質(役割)が、そう仕向けている場合が多く、その役割を果たしている当人は、「人間的には」そうでない人も多くいる。

担当(たんとう)
受け持ってその事に当たること。 引き受けること。  「営業を-する」 「 -者」

三省堂 大辞林 第三版

しかし、物事に「凝る」人もいる。 役目や与えられた任務に凝り過ぎると、とかく「融通の利かない」頑固な人になり易い。 よく言えば、このような頑固な人は任務に忠実なのだろうが、そうした頑固な人を相手にする方はかなわない。

人間じゃないが、帰らぬ主人を待ち続けた「忠犬ハチ公」の例もある。 仕事(上役?)に忠実のあまり、自殺した人もいる。 こうなってくると、「自分」と「役目(担当)」との区別がつかず、役目が、担当者を支配してしまっている。 

人には、総じて、役目に従う傾向がある。 役目、役割に忠実のあまり、いつの間にか役目や役割が担当者に優先し、担当者の自分が失われてしまうのである。 このような事態を防ぐためには、まず自分というものを、先に確立し確固たるものにして置く必要がある。 言い換えれば、日頃から、自分の主体性なり、基本的人権なりを確立し、確認しておくことが大切なのである。

他人の言いなりにならないことは、必ずしも「頑固」ではない。役目に忠実であることは頑固かもしれないが、自分の主体性を日頃から確立・確認して置き、当面する事態に応じて、臨機に自分の考えを主張することが大切なのである。 

担当は、「仮面」である。 仮面の背後にいる自分を失ってはならない。 某作家は、「剣客商売」という小説を書いた。 剣客は、商売であり、役割である。 背後には、「秋山小兵衛」という人物がいる。 秋山小兵衛は、「剣」に凝った。 しかし、それ以上に「秋山小兵衛」である。

 

自分と親身

自分と親身とは違う。 他人がいくら親身になって呉れると言っても、他人は自分の思い通りにはならない。 背中の痒い所を掻いて呉れと言えば、親身で掻いてくれる孫はいるかもしれないが、気分が悪いのを直してくれる孫はいない。

自分は自分。 孫子(まごこ)と言えども、自分じゃない。 自分の事は、自分でするより仕様がない。 代償を払えば、して呉れる他人もいるかも知れないが、代償が目当ての仕事は親身じゃない。  

「寄り添う」を謳う仕事はあるかもしれないが、仕事として謳うだけに、親身じゃないと分かるから、疑わしくて気持が悪い。 あなたの為を謳う仕事は多いが、仕事は結局、その仕事を担う当人の為で、あなたの為じゃない。 誰でも、自分は可愛いし、自分には温かい。 自分の心は、感じるし、見ることが出来る。 親身な人とは、その温かさを、自分に代わって自分に与えて呉れる人を言う。

親身なら、少々の温かみがあるかもしれないが、温かみは、売物でも、仕事でもないので、親身を仕事として売る他人は疑わしい。  親身は、元々、心と心の繋がりから生じてくるもので、心の繋がりがなければ、親身もない。 

他人と自分は、いつも心から信頼し合えるとは限らない。 他人の親身な努力は、元々、他人の物。 自分と他人は、別の者。 心から信じ合えるなら、互いの親身も在り得ようが、仮に在るとしても、それはあなたの一時的な幻想か、希望かで、恒常的に親身であれるのは、一緒に生きる自分自身だけ。

松竹梅判断

人は、安全、安定と求めるようだ。 「ほどほど」、これを求める。 ある程度のリスクを取るものの、危険は避けるために一応の安全は図って置く、という及び腰の姿勢だ。 「怖いもの見たさ」、「おっかなびっくり」、そして医者の「様子見」も、似たようなものだ。 そもそも、様子見ならば、医者も大事な患者を失う事は無い。

うな重を食べにうなぎ屋に行くと、値段の高い「松」や、値段の安い「梅」を選ぶ人よりも、圧倒的に真ん中の値段の「竹」を選ぶ人が多いといいます。
ウエキペディア

度胸の無いのは、誰もが同じ。 徳川幕府の幕閣のお偉方たちも、そうだった。 第七代徳川将軍徳川家継が8歳で死んで、宗家の血筋が絶えようとしたとき、後継者選抜の問題が起こって、徳川幕閣の老中の方々が、「怖いもの見たさ」で、御三家筆頭の尾張(62万石)を差し置いて、二番目の紀州徳川家(56万石)から「吉宗」を選んで、第八代将軍に祭り上げた(ちなみに、水戸は35万石)のも、松竹梅の「竹」、つまり「ほどほど」のところへ収めたのだろう。

ところが、この選択、間違ってはいなかった。 「開けてビックリ、玉手箱」、吉宗公を選んで分ったのだが、この人は大変な人だった。 

「竹」どころか、「松」も松、本物の松。 吉宗公は徳川家中興の祖となった。 老中諸侯は、「可もなく、不可もない」選択だと思ったのたろうが、 過不足のない中道(生半可)なやり方でも「駒がでる」

可もなく不可もなし
① 〔論語 微子〕 言行が中道を得て過不足がない。
② 〔後漢書 光武帝紀〕 とりたてて欠点もないが、長所もない。 平凡である。

三省堂大辞林第三版

こともあるし、「様子見」が、良い結果に繋がることもあれば、流行らない町医者の診断でも、当たることもある。

世間の人は、リスクを恐れる。 うなぎも「竹」なら、まんざら「全くの金の無駄使い」にはならない、と慮るのだろう。 患者の方でも、「竹」の扱いです、と告げられて、不満を感じる筈が無い。 「はあ、それじゃ死にやしないし、世間並なら、生きる可能性も残ってますな」と一応、満足らしものを感じる筈である。

事物の評価についても、同じ傾向が見られる。 殆どの人に、どのような事柄の評価を尋ねてみても、「まあ、まあです」と答えが返ってくるのが、一般である。 つまり、事物の評価に「中程」執るのである。 要するに、人は、両極端を避けるか、判断そのものを避けるのである。 しかし、両端が無ければ、真ん中も無いし、判断しなければ、始まらない。 人は、無意識の内に、「端」を見てしまうし、端が無ければ、端を創る。 と言うのも、自分で判断するのを怖がるからである。

上方(かみがた、かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を始めとする畿内を呼んだ名称である。 広義では、畿内を始めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。

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江戸の比較の相手は、一般に「京都・大阪」とされる。 では、物事の判断基準に真ん中の名古屋が選ばれるかと思えば、そうでもない。 名古屋は、「お伊勢参り」の途中に立ち寄るぐらいで、東海道を上り詰めた京(都)には天子様がおられる。 東海道五十三次の両端は、江戸には将軍様が、京都も天子様がおいでになるので創られたが、真ん中の名古屋は、将軍様のお子様であるにも拘らず、京都におわす天子様のお陰で飛ばされている。 

物事の判断には、エネルギーがいる。 そもそも、判断留保や中程を執る傾向は、物事の判断を避けて、他人の判断を借用、ないし便乗とするに尽きるが、自分のエネルギーの費消を避ける本能的な狡い人間の知恵だとも言える。

松を避けて己の銭を節約し、竹のうなぎで我慢するなど、愚の骨頂である。 それほど銭が惜しいなら、始めっから「うなぎ」を食べようなどと高望みすべきでない。 うなぎが高価なのは、あなたの責任ではない。 あなたが金欠無双なのも、あなたの責任ではない。 全て、この世が悪いのである。 悪い時代に生れ合せたものだと、舌なめずりだけで我慢なさい。 一層の事、「梅」の酸っぱさで唾を呑むのが、一番リスクが低いし、金も掛らない。

「竹」の知恵は、他人の知恵。 他人の知恵を借りるのも、あながち悪いとは決められない。 といって、あなたに知恵が無い訳ではない。 在っても、出せない訳がある。 「もしや」と言うリスクがあり、世間体という訳がある。 他人の知恵の方が良いことが多いのも、困ったものだ。 それは、あなたの責任かも知れないね。

読書百遍、ならば、他人の知恵も、あなたの知恵。 判断留保をしなくて済む。

体調(たいちょう)

体調は、自分の身体に対する自分自身が感じるものである。 が、医者は、これが悪いと、患者本人の自訴、医師自身の知見、近代的医療機器の助けを借りて(基づいて)、体調を正常へ戻す。 その上で、医者は「私には、あなた体調(病気)は直せない、あなたの体調を直すのはあなた自身が持つ自然治癒力で、私(医者)は、あなたが持つその治癒する力を手助けするだけ」です、と言う。

ここまで、書いてきて、読者は、なぜこんなことを書く?と疑問を感じておられることと思う。 実は、私は疑っている。  本当に医者たちは、そう思っているのか? 話の途中だが、その割に横柄な医者が多い。 中には、一見謙虚にふるまう医者もいる。 が、営業政策の一環ではないか、と疑ったりもする。

営業政策と言えば、特に、開業医に、横柄、謙虚の両極端があるように思える。 人体に授かっている自然治癒力がそれほど、根本的な物なら、患者当人の「感じ」を尊重すべきである。 そうでないケースが殆どである。

私は、長年、老人ホームで生活している。 老人ホームには、医者の助手である看護師が、昼間、常駐している。 看護師は、助手だから、万事、医者の指示に従う。 この「医者の指示」が曲者で、看護師の「言訳」、「指示」、など、責任逃れの隠れ蓑に使われる。

元々、医者には、患者の自然治癒力という「言訳」が手元に常備されているから、看護師のそれは、二重にアクドイ。 自然治癒力は、本来、患者当人の物である。 患者当人が訴える体調が、基礎であるべきなのに、看護師が、「自分の」判断を押し付ける。 

その看護師の判断に抗議すると、「お医者様がそうしろとおっしゃっています」と、強圧したり、逃げたりする。  背後には、医者という責任逃れの大物がいる。 

患者の自然治癒力は、落語の「手遅れ医者」に等しい。 体調が戻れば、医者の手柄、悪くなれば、患者当人の手落ち(責任)。 この自然治癒力は、誰が発明した言訳(論理)が知らないが、何事も、体調/病状に関する限り、患者当人の責任に帰し、医者の存在を蔑ろにする奇怪な論理である。

貝原益軒先生は、(養生訓)を通じて、遠い昔のことながら、間接的に人体に備わる自然治癒力の大切さを説明しておられる。 現今の医者も、看護師も、その教えに悪乗りして、患者たちを痛め付け、稼いでいるのではないかと、ヒガミたくなる。 

自然治癒力は、本当にあるなら、患者当人の物である。 体調不良を訴える人がいたら、先ずその「訴え」を聞き、尊重すべきである。 その上でその訴えに、己が持つ医学的知見と近代装備を駆使して応えるのが、医者、看護師の本来の責務である。

伝家の妖刀:可能性

可能性と言えば、何についても可能性はある。 可能性は、未知の事柄である。 国会で行う大臣の答弁で、言い逃れによく使われるセリフとして、「可能性」がある。 この言葉には、誰と言えども、抗うことは出来ない。 未知の事柄であるからである。

欧州(英、仏)で、新型コロナの感染拡大にもかかわらず、マスク着用に抗議する運動が起こっている。 アメリカでは、あの我が儘者の大統領ですら、マスクを着用し始めている。 何故、反対?

出歯亀(でばがめもしくはでばかめ)とは、明治時代に発生した殺人事件の犯人として捕らえられた男性のあだ名、もしくはこのあだ名から転じて窃視(のぞき行為)やこれを趣味とするもの、窃視症のように病的な状態にあるものを指す。英語では「ピーピング・トム(Peeping Tom)」という言葉がおおむねこれにあたる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

老人ホームに「有料介護付き」の施設があるが、こうした老人ホームは、「金を払えば、面倒を見て呉れる」施設である。 しかも、営業上の都合だろうが、出来る限り多くの老人を集めるために、集める老人の種類は問わない。 自立した老人、要支援Ⅰと目される老人、要支援Ⅱ、要介護Ⅰ、要介護Ⅱ、相談に応じて認知症に罹っている老人、混合して集める。 いわば、「味噌も、糞も、一緒」である。 

老人は、概して健康不安である。 こうした老人を預かるうえは、常に、注意していなければならない。 老人には、就寝中も、入浴中も、突然、倒れる「可能性」がある。 そこで、老人を始終監視、つまり、見守る必要がある。 寝ているときも、入浴の時も、絶えず「のぞき見」する。 こうして、「でばかめ」任務が、職員の飯のタネになる。 が、「可能性」ありと言う勿れ。

他方、当の老人たちは、特に、自立した健常老人は、他人に監視されたり、容喙されたりすることを、自分の矜持を守るために嫌う。

「渇しても、盗泉の水は飲まない」 矜持高き、自立老人の面目が、他人、特に、若き異性の『のぞき』や介入が許せるはずが無い。そこで、老人側も抵抗する。 斯くして、「頑固爺や頑固婆」が生まれるが、それも世の常、あなたもいずれそうなる。

こうした老人ホームの経営管理には、多数、つまり、糞を平均した目安を手掛かりに行う。 自立した老人(つまり、味噌)にも、意地もあれば、矜持もある。 こうした味噌も糞も一緒の管理に抗議するが、多勢に無勢で、あがきが取れず、結局は、憂き目を見る。

矜持、面目、名誉こそ、人間の人間たる所以のあるところ。 老いたりとはいえ、我も人なら、汝も人。 焉んぞ(いずくんぞ)老人の志を知らんや。 欧米人にも、「志(こころざし)」はある。 彼等の「マスク着用反対」の志を、お分かりか? 英人、仏人、そして、老人の志に共通するものは、何か? 

この志は、若者の「青雲の志」に似たところがある。 いうならば、人間の「主体性」、「人権」、「個性」が、これら主張や志に一脈(いちみやく)通ずるところである。 人間の主体性確立の為には、「可能性」を慮る(おもんばかる)ことは、捨てよ。 可能性と言えば、キリが無い。 未知は、何時も、前にある。

番頭政治

旦那の突然の死去の結果、娘に番頭を婿養子に迎えると言う話は昔の大店(おおだな)ではよく聞いた事らしい。 この男、番頭をやっていたほどだから、商売にはソツはない。 が、大店の旦那同士の付き合いがどうもうまく行かない。

碁、盆栽、三味線、長唄お茶屋遊び、などは、からっきしダメ。まして商売敵に、足を引っ張られたり、得意先を取られたり、先代なら、こんなことはなかった、という失敗も、数知れない。

引き継いだお店の管理も、今一つ。 昔の同僚が、今は雇人。 だが、雇わられている連中も、「この旦那は昔の朋輩だ」、と思うものだから、諸事について、甘く見る。  おまけに、大事なことは、「いとはん」にと直接、女房へ訴える。

似たような話が、今、日本の政界で起こりそう。

仕事熱心

軍人は、戦うことを職業とした人です。  昔、日本の軍隊には、「軍人勅諭」と言うものがありました。 この軍人勅諭は、部分的に、現代の「勤め人」にも当てはまるところがあります。

軍人を「私たちは…」、「我々は…」に置き換えると、現代でも十分に通用します。
一.軍人ハ忠節ヲ盡スヲ本分トスベシ
一.軍人ハ禮儀ヲ正クスベシ
一.軍人ハ武勇ヲ尚ブベシ
一.軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
一.軍人ハ質素ヲ旨トスベシ

ウエブリオ辞書

何しろ上役の命令には抗うことが出来ずに、自らの命を自ら断った例のある日本人ですから、ルールや規律を、律儀な日本人は頑なに守ります。 事実、現代でも、まるで昔の軍人を絵に描いたような、真面目で、融通に利かない、律儀な人がいます。

他の職業と同じように、の老人ホームや自宅介護の介護ヘルパーにも、守るべきルールや規律があります。 介護ヘルパーも、仕事のルールや規則を、キチンと守らなければなりません。

介護人の本分は、「介護する」ことです。  介護ヘルパーが本分

本分(ホンブン)
1 人が本来尽くすべきつとめ。「学生の本分をわきまえる」
2 そのものに本来備わっている性質。

デジタル大辞泉

を尽くすべき相手は、言うまでもなく、被介護者です。 しかし、律儀さが、誤った方向へ向けて発揮されることがあります。 律儀さが、職業や所属組織の規則に忠実であることと「自分」に忠実であることとを混同させてしまうのです。 言い換えると、律儀という自分の在り方(道義心)重視のあまり、介護の本来の目的、つまり、「介護すること」とを混同してしまうのです。

結果として、介護ヘルパー当人は一生懸命、真面目に規則を守っている積りでしょうが、肝心の介護サービスが等閑に付されてしまうのです。 別言すれば、規則のために(規則を律儀に守るため)、被介護者を犠牲にする傾向が生れて、介護を必要とする被介護者が、放って置かれることになるのです。

被介護者が介護ヘルパーに求めるものは、「介護」です。 「仕事に忠実である」ことではありません。 律儀で、真面目、かつ一途な人は、介護と言う職業には、向かないかもしれません。 介護へルパーには、おそらく他の職業や生活一般と同じように、融通が利くことも大切です。 

一般に、介護の対象者には、突然、どのような状態になるかの判らない人が多いので、そうした場合、融通が利かずに、マニュアル一点張りだと、「木を見て、森を見ず」の弊害に陥いり易いのです。

滅びる人間

宇宙の推定年齢は、138億年だとされる。 地球の年齢は、45.4億年前後、太陽の年齢は、46.03年、太陽系の年齢は、45.71億年、月の年齢は、45.3億年と言われる。

地球の年齢(ちきゅうのねんれい)は、地球誕生から現在までの経過年数である。45.4 ± 0.5億年 (4.54 × 10 9  年 ± 1%)であると推定されている [1]2][3] 。この年齢は、隕石の放射年代測定から得られたデータに基づいている。

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およそ1億年から7千万年前、地球上に最初の霊長類が現れました。霊長類のなかで最も原始的なサルは原猿類と呼ばれます。ツパイなどがその例です。原猿類の見た目は、ヒトよりも、むしろネズミに似ているといっていいかもしれません。霊長目は、目のしくみと手先の繊細さと脳の大きさにおいて他の目の生物よりも秀でているといえます。

およそ4千万年前に、霊長目の亜目として類人亜目が分かれ出ます。このグループは、後足立ちができ、爪が鉤爪から丸い平爪になり、顔もより人間に近くなります。

およそ3千万年前には、さらに尾のないサルが現れました。ヒト上科として区分されるサルです。現存するヒト上科に属する種としては、たとえばテナガザルなどがそうです。

およそ1700万年前になると、より大型のサルが現れます。ヒト科です。現存するヒト以外のヒト科の生物には、ゴリラやチンパンジー、オランウータンがいます。

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猿、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスに続く、我々、人類の歴史は、僅か2万年にしか過ぎない。 我々以前にも多くの生物が発生し、滅びていった。 生存競争や自然淘汰の結果である。

ヒト属あるいはホモ属 (Homo) は、哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の属のひとつ。―(中略)— 現代人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の属するホモ・サピエンスと、ホモ・サピエンスにつながる種を含む。 約2万数千年前に絶滅したホモ・ネアンデルターレンシスを最後に、ホモ・サピエンス以外の全ての種は既に絶滅しているとされる。―(中略)-「HOMO」 はラテン語で「人」を意味する語である。

ウイキペディア

しかし、人類(民族)の滅亡の場合、人為的な滅亡もあったと思われる。 例えば、現代史の中で起こったことと記録(?)、かつ想像される、中米のマヤ文明、インカ文明が、そうである。 これらの文明以外にも、つい最近(17世紀)まで、暗黒大陸と呼ばれていたアフリカ大陸の幾つかの文明が、民族間の争いを元にして滅びた種族(文明)があったかもしれない。

人類は、僅かの期間の歴史の間に、数々の争いを民族間、国家間で行ってきた。 それどころか、他の生物とも争ってきた。  なかでも、難敵なのは、ヴイ―ルスを含む細菌類だったと思われる。 

ヴィ―ルス、細菌も、生物である。 当然、生存競争、自然淘汰、適者生存の原理が働く。 幸いにして、人間は、この見えない敵を見る方法を見出し、彼等と戦う方法、武器を考え出したが、長い地球の歴史の間には、そのような科学的方法を考えだすことが出来ずに、自然の原則に従って、易々と滅びていった数々の生物も存在しただろうし、現在も滅びつつある生物が地球の各地に、例えば、日本の小笠原群島の様な島嶼、大陸に多く存在する。 

人間は、幸か、不幸か、自らが発明した科学技術によって、意図的に自然の原則に抗し、制御することが出来るが、問題はその技術をどのように使うかである。 意図とは、目標を設定し、その目標に向かって、自らの行動を制御できることである。

アインシュタインは後に「原爆が人類にとって恐るべき結果をもたらすことを私は知っていた。 ドイツが原爆開発に成功するかもしれないという可能性が、私にサインさせた」と述懐している。 そして広島、長崎の大惨事を知り、悲痛の声を上げ、自分の知識が核エネルギーに使われてしまったことを嘆いたという。 また「私は生涯において一つの大きな重大な過ちをした。それはルーズベルト大統領に原子爆弾をつくるよう勧告した時に、もし私がヒロシマナガサキのことを予見していたら1905年に発見した公式を破棄していただろう」と、罪の意識から後に平和声明を発し、戦争廃止を訴え、核兵器廃絶に尽力した。

琉球新報

動物は、自らが生きるために争う。 が、人間には、自分を制御する知恵が備わっている。 その知恵によって、発明した科学を制御することが出来る。  その知恵を、争い(戦争)に使うか、平穏(平和)に使うかも、人間は制御することが出来る。 自然淘汰に加えて、同類はもちろんのこと、諸動物を淘汰したり、育てたりすることも出来る。

これは、恐れるべきことだが、自然(神仏)に代わって、生半可ながら、ヴィ―ルスや細菌まで制御できる「能力」までを克ちとっている。 いまや、新に出現した生物、新型コロナ・ヴィ―ルス、に立ち向かう時が来たのだ。 原子核、爆弾の保有、開発に努力するよりも、ヴィ―ルス克服に努力を払うべき時なのである。

国と国、民族と民族、白人と有色人が争う時ではなく、グローバルに、人間とヴイ―ルスや細菌との間で、争うときなのである。 悠久の歴史の目で見れば、国家間や種族間の戦争などは、近視眼的も、近視眼的、兄弟姉妹間の、親戚間の争いである、 いや、人間同士の間には、争いではなくて協力が必要なのである。 この協力によって、コロナ・ヴィ―ルスと人間との争いの「危急存亡の時」を逃れなければならない。

叩き台(たたきだい)Ⅱ

叩き台(たたきだい)
 批判・検討などを加えて、よりよい案を得るための原案。

Goo辞書

 ある友人は、一見識を持っており、何事についても一言言わねば気が済まぬ性質の人物だ。 ことあるごとに、議論を吹っ掛けてくる。  その多くは、何の事は無い、叩き台にこちらを使おうとする魂胆だ。

だから、真剣な議論かと思えば、そうでもない。 仮に口に出してみるだけの議論らしい。 途中まで、議論が進むと、「あぁ、そうか。 なるほど。 それで、合点が行くな」と、手前勝手に、当人自身が話の腰を折る。 

そんな議論に乗ったら、こちらの気も抜ける。 腰を据えて、コヤツの話に乗る気が、段々しなってくる。 次第、次第に、聞き流すだけになってくる。 真剣に聞くと馬鹿を見るからだ。 その辺は、友人の事だから,相槌だけは聞いた振りして、一応は打って置くが、真実、中身は聞き流し。 ところが、相槌を打てば、打つほど、当人の調子が上がってきて、相手の議論が激しくなってくる。

こちらが響けば、響くほど、相手の調子も良い。 相手の調子が良ければ、こちらも、なお響く。 相互に響く調子の音の良さは、叩き台の叩きは甲斐を上げてくる。 上手な叩き台は、上手に響く。 

♬響く阿呆に、響かぬ阿呆、同じ阿呆なら、響かな損々♬

なんだか聞いたような文句だが、これも相槌。 とん、とん、「ほら」相槌上手は、聞き上手だ。 話が相槌、相槌で、すらすら進むと、相手が気付かなくとも「オチヨクル」ことに近くなる。

良い友達は、聞き上手、聞いても居ないくせに、ほら、論じな、言いな、聞いてるよ、と響く。 それから、どうした、どうなる? 

ます、ます、侃々諤々、更に喋れば、当人ますます、良い気になれる。 お互いが調子を揃えて、喧々囂々。 此処まで来れば、叩き台は十分だ。 

喋り手は、大抵、自分勝手に、自分の議論に酔い痴れる。 議論内容の検討、評価は、ご本人でどうぞ。 良かった議論に決ってる。 叩き台は、十分に響いたよ。 それが、叩き台のたたき台たる所以だね。 そうでなければ、聞かされ放なっし、の、叩かれっ放無し。