鉄道大臣

夢寐のたわごと

マスク着用の副産物

日本女性は、美人ばかり

  • ひところ、眼鏡美人ということが言われました。 眼鏡をかけると、いかにも「賢い」女性であるかのように見えたからです。 最近、マスクをかけた女性の年齢を問って、その後、外した後の顔を映し出し、如何にマスクをかけると若く見えるかを示して、マスクの効用を宣伝したテレビ広告がありました。 私も、私が通院するある総合病院の血液検査部門に働くある女性が顔にマスクをしているので、ある美人女優に酷似している、と確認しております。

 老人は、耳が遠い

   ― 一般に知られているように、老人は耳が遠いのです。

      私も、老人に一人として、体温計の完了音が聞こえな  

      いので、その事実を確認しております。 ところが、

この事実に輪をかけるのが、マスクなのです。 マスクした相手に話しかけられても、その相手の言葉が、マスクの中にくぐもって、何を言っているのか判らないのです。 相手が苦情を言っている場合は、これを幸いと、聞こえない振りをしていますが、大事な用事の場合は、老人虐待に繋がりかねません。

死んで、花実が咲くものか

この標題の言葉は、最初、日本書紀に現れています。 江戸時代の浄瑠璃にも、頻繁使われる表現です。 経済活動か、コロナ感染か、は、別の私のブログでも述べたように、この表現を「コロナに感染して、死んでしまえば、経済活動もあるものか」、と移し代えることが出来ます。 

活動は、人間の働きです。 人間が居なければ、活動は無いのです。 それこそ、「命あっての、物の種」でしょう。 経済活動とコロナ感染とを秤にかけること自体が間違っているのです。 経済活動に、しがみつくのは、政治家のエゴです。 国民は、生存を望んでいるのです。

義務(ぎむ)

義務とは、勤めを「義」とする行為です。 では、「義」とは何でしょう? 義は、下記の定義が示すように、己の行為(あり方)、そして己の務めが正しいと自認することです。

(ぎ)は、人間行動・思想・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。 義人とは「堅く正義を守る人を言う。

広辞苑第6版)

従って「それは、私の仕事ですから~」と言うことは、その仕事を進んでやります、と言う意思を示したのですが、どうも実際を観察すると、「いやいや」仕事をしている節が窺がわれます。 

日本人の場合、どこかで、「義務」が「強制」に変わってしまったようです。 強制だと、監督の目が行き届かないと、「サボる」とか、「投げやりの仕事する」とかに、終わってしまいます。 日本人は、仕事と義務との区別をハッキリさせないようで、区別させないからこそ、義務(仕事)を安請け合いし、陰でサボるとか、いい加減な仕事をする、とかの傾向が見受けられるのです。 

端的にいうと、日本人は、欧米人と違って、強制にも簡単に従う反面、結局のところ仕事をさぼったり、投げやりな仕事したりする狡(ずる)さがあります。 強制されたからと言って、日本人の心は自立心(独立心)の強い欧米人と違って、波打つことは無いのです。 唯々諾々、強制を受け入れる心の弱さ、自尊心の薄弱さ、悪く言えば、狡猾さが、近代日本人の気質に見受けられます。 

この傾向は、聞くところの武士の精神には、見られないところです。 名誉を重んじ、圧力に屈しない大和魂は、いまいずこ。 先の大戦における敗戦の故か、明治以来の近代化の故か、日本人は変わったかのように見受けられます。 絶え間なく天変地異に襲われる世界から閉鎖されていたこの極東の小さな島国に住む小さな人々の心意気は、最早、昔の物ではないでしょうか!

ある美容料の広告

ある美容料の広告についての夫婦の会話
夫が自分の頭をいじりながら、
「若いなぁ、もう還暦だけど!」
妻、
「嘘ぉ、もっと小さいでしょ」
お分かりかな、世間の夫婦は、どこでも、こんなものですよ。

命あっての物の種

経済活動とコロナ感染のバランス? 阿呆だねぇ。 「命あっての物種」と言うでしょ。 もちろん、命が先ですよ。  命が無ければ、経済は無いんですよ。 バランスを問うなんて、あなたのバランス感覚は、バランスを失ってますよ。 

金か、命か、と問われたら、私なら、当然、差し当たって命が欲しいと答えますよ。 金は、盗んでも良いし、盗むには、命が必要ですね。

リーダー行動の基本形

最初にお断りしますが、「形」があれば、当然「心」が対応します。 この行動の形を「仏の心」で執ることもできれば、「悪魔の心」で執ることもできます。 さらに、言い換えると、民主的に執ることも、独裁的にとることもできるのです。 私が説明するのは、言うまでもなく、民主主義をべースにした「形」です。 

この考え方では、リーダーはフォローアー(相手:部下、生徒、など)の課題遂行のキャパステイ(能力、意欲)に対応させて、自分のリーダー行動を執るのです。いわゆる、タスクーレレバント(Task-Relevancy)、すなわち「課題=状況対応」です。 説明の便のため、相手の課題遂行キャパシテイを「能力」と「意欲」を総合としたものだと考えます。 

相手の課題遂行キャパシテイが、「低い」と判断される場合には、リーダーの指揮・指導(つまり、リーダー行動=リーダーシップ)の形も相応した教示的で、一方的なものが、効果的だと考えられます。 他方、相手の課題遂行キャパシテイが「高い」場合は、相手に遂行を任せるだけで十分だと考えられます。 

この相手の課題遂行キャパシテイの程度を、更に細かく中程度、高と中の間、中と低の間と分けることもできます。 その分け方に応じて、リーダー行動の効果性を勘案して執ることができます。

以上、概略を述べましたが、この場合のリーダー行動は、もちろん、課題(目標)設定と課題(目標)達成に対するものです。

リーダーは、通常、複数のフォローアー(単数でもよいのですが)を指揮・指導して、目標の達成を図ります。 その場合のリーダー行動の基本形が、以上に概要を説明したものなのです。 以上が、いわゆる、「状況対応リーダーシップ®」の「形=技能」のあらましです。

 

※状況対応リーダーシップ®は株式会社AMIの登録商標です。

不登校爺

私は、間もなく91歳になろうかとする爺ですが、いままでに2回パソコン教室通学を、腰折れ、つまり、中途退室(不登校)した覚えがあります。 教室の授業が面白く感じられないのです。 若い先生(私の年齢では、誰でも「若い」のですが)が、適度に「お年のわりに、よく為さいますね。 そこまでできる方は、あまりおられませんよ」と、オチョクッテくれる。  

なにしろ、91年の年月を経た古狸の爺ですから、そんな見え透いた煽て(おだて)には、易々とは乗りませんよ。 授業が進むうちに、だんだんに、「もうやめた!」という気持ちが頭をもたげてくるのです。 「老年、疲れやすく、学成り難し」かと思っていたら、そうでもないらしいのです。 では、「何が理由で?」と考えてみたのですが、「教科書」が気に入らんのですね。 

フランスに始まり、それがイギリスへ飛び、その果てに、遥か北欧に近いドイツ連邦へ移ったコロナ感染を防ぐためのロックアウトに抵抗する西欧の人々の気持ち(心)に通じるものが、あると気付ました。 拘束からの解放、これです。 教科書は、教室側で定めたレールです。 このレールが、教室参加者、少なくとも、私にとっては、「拘束」だったのです。  

行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の
血まみれのが 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!

ラ・マルセーズ(フランス国歌:革命歌)

 

少なくとも、この不登校爺の心意気は、このフランス革命歌のようなアンチ教科書の「自由(解放)」を求める爺の雄叫び(おたけび)だったのです。

老人の心理的、体力的持久力

繰り返し言うまでもないことですが、私は、常住80人から90人の老人が住んでいる老人ホームの居住者です。  私は、老人のくせに、割に馬力があります。 他の老人たちを、私を基準にして考えてはいけないということを最近知りました。 

私は、いろいろな趣味を持っていますが、DVD、特に西部劇のそれを買い込んで、夜遅くまで楽しんでいます。 この楽しみを他の老人たちにも分けてやろうと考え、ホームの大型テレビを使って、DVD鑑賞会を催行することを試みてみました。  

やってみました。 結果は、惨々でした。 参会した老人たちは、見せた番組が昔懐かしい日本映画であったにもかかわらず、2時間近くの時間が座ってられないのです。 番組の選択が拙かったのしれませんが、とにかく、終演の頃には、誰も居ませんでした。 興行主としては、こうした慈善事業は、老人には向かない、と感じました。 

これは、DVDという外的状況の問題ではなくて、鑑賞に参加した老人たちの心理的、体力的持久力に関わっているものと感じました。 外的状況のDVDに関する限り、私は十分に楽しんでいるのですから! 

途中で,オシッコがしたくなって抜けるのは、許しますよ。 でも、興味を失ったでは、失礼じゃありませんか! 私が楽しめるのに、その楽しみの「高尚さ」が分からんのか!という怒りです。

もうこうした慈善事業には、携わらん。 「いち抜けた」、です。

それは、私の、施設の責任になる

私は、長年、ある有料介護付き老人ホームに住んでいます。 事情があって、病院へ入院することになりました。  この病院でも、「リハビリテーション」と呼ばれるサービスを提供していました。

「でも」という訳は、私の老人ホーム「でも」リハビリ・サービスを提供しているからです。 

脚力が、ある程度、戻ってきたので、杖を突きながら、自発的に、「先生」の居ない状態で、歩いてみました。 すると、先生が、私の傍へ寄ってきて「XXさん、勝手に歩かないで下さい。 コケたら、私の、病院の責任になります!」、と言うじゃありませんか! 似たようなセリフを聞いたことがあるぞ?  そうだ、老人ホームだ。

手前(てめえ)や病院の責任なんか、どうでもいい。 自己責任だ。 人の自立心を挫くような言い方をするんじゃない。 おめえ、それでも先生か?  

サービスとは、「献身する」ことです。  「無料」を言うんじゃありません。 献身とは、己(おのれ)を捨てることです。 捨身の事です。 無料介護付きなら、強制(お節介)でも許せますよ。 だが、 誰の責任になる、と言うんです。  おのれでしょう?  じゃ、己の為じゃありませんか! 先生ずらするんじゃない。 先生どころか、餓鬼じゃありませんか。 

済みません!

隣家の玄関を訪れるときも、「済みません!」。 誰かに話しかけるときも、済みません!」 何をするにも、「済みません!」 これでは、まるで、泥棒が静かに、おどおどと、遠慮がちに、どこかへ忍び込むようだ。 

日本人の口癖といえば、一応頷けるが、関西へ行っても、「ご免やす!」。 そんなに悪いことをするのなら、はじめっから、やらなきゃ良い。 どこへいっても、悪者ばかり。 外国人にも、「ご免やす」。 日本人を痛めつけるにゃ、ピストルはいらんね。 日本人は、はじめっから、無条件で降伏してくるからな。 

なんで、あんたが、謝らねばならんの? 何か、悪いことでもしたんかいな? ほんなら、関東風に、「済みません!」。 泥棒さん「お出でやす」。 どないしても、「済みません!」。 自我が薄くて、弱い証拠やねぇ。