鉄道大臣

夢寐のたわごと

管理者

数十年前まで、私も某国際的大企業の日本支社で、管理者を務めていました。 「部長」です。 「教育訓練」、「人事」と言う職責を歴任しましたから、相当多数の人たちに関わる仕事でした。

退職して数十年になりますが、最近になって、集団と個人とは、随分違った立場だな、と実感するようになりました。 それと言うのも、老人ホーム入居者の一人という「管理される側の」独り(一人)になったからです。 管理は、通常、家庭教師とか、「お付き」とか、執事とか、大富豪や貴族なりに報酬を得て世話をする役目とか、を除いて、人間を含めた複数の物を扱う場合の「観念」ですが、このような複数の対象物=集団=集合物を扱う場合に、(おそらく、便宜上)数(すう)、ないし統計に依って処置(管理)します。 

ポイントは、ここです。 集団は、当然のことながら「個人」ではありません。 ところが、現代は、「個性=人権」が尊重されねばならない時代です。 個人(個性=人権)が尊重されねばならないのに、個人が、統計に含まれる一つの数として「管理」されるのです。 

もちろん、「個人」は、自分(=人権)を主張します。 ここに悲劇の種があります。 管理者は、個人(人権)を無視します。 さもないと、全体(=集団)を容易に扱えないからです。 集団の中の個々人の意思に配慮しながら、全体を管理するのでは、管理本来の意味がなくなり、管理者は「給料泥棒」のそしりを免れません。 

管理者は、職務に忠実であればあるほど、「良い?」泥棒になるのです。 私は、「心から、本当に」良かったと思っています。 長い間の「泥棒稼業」から解放され、盗まれる側の幸せな立場に立つようになったからです。