鉄道大臣

夢寐のたわごと

適合

適合

何事にも、適否の問題がある。 特殊な人は別として、通常(健常)な男女には、「相応しい」相手がいるものだ。相応しいとは、特定的に、特殊的に「合う、合わない」ではない。 概念的に相応しいということだ。 

私(ちなみに、私は90歳の老爺である)にも、世間や仲間が、「年頃」を言われた時代があった。 私も、年頃に、好いた相手を見つけて結婚した。 世間の目には、おそらく、お似合いの相手同士であったのであろう。 十数年前に、その家内を亡くした。 現在は、お似合いの相手は居ないが、「概念的に」相応しい相手を欲しいと思っている。 

しかし、年を食っていると、知情意にも、磨きが掛かっている。 想定される相手にも、相応の磨きが掛かっていることが望ましい。 が、不幸なことに、年と共に、人口も減るから、知情意に磨きのかかった老婆となると、ますます人口が少ない。 殆どの私の年齢にに相応しい老婆は、この世には居ない。

少ない人口の中から、概念的に相応しい相手を見つけることは、老婆人口も相対的に少なく、難しい。 しかし、如何に相手とする候補者が少なくとも、健全な人間である限り、色気は失せない。 世間の下種な者どもは、斯様な色気の事を、「助平根性」などと見下すが、念の為、断わっておくが、私には、その手の興味は、枯れている。 

先日も、旅行の餞別に、「コンドームとバイアグラ」をセットにしたものを、友人に贈ると言う洒落た男のことを報道しているのを、テレビ番組で見たが、私は、そこまで洒落てはいない。 くどい様だが、私は枯れているのである。 が、相応しい相手には、興味がある。 

適合は、人間の生存には欠かすことの出来ない重要課題である。 左様、生存である。 その証拠に「適者生存」と言う概念もある。 「適か、不適か」は、相対的概念であって、「相手」無しには成立しえない。 私も、自分の命を長らえるために、例え観念的ではあっても、相手を探すことにする。 目下のところは、子供の頃憧れた映画女優とか、京都の祇園の鴬(うぐいす)芸者歌手とかの、ヴァーチャルな歌声や映像で我慢している。