鉄道大臣

夢寐のたわごと

茶飲み友達

若かった頃、特に郷里の新制高校時代は楽しかった。 談論を風発して、語り合える友が居たからである。 今は、同年齢の人たちの殆どが、亡くなっている。 この施設にも近い年齢の人たちが何人もいるが、育ち、体験、趣味、などの種類が違うので、語り合うことが難しい。 できるのは、黙り合うことぐらいである。 

施設の職員は、入居者の面倒を見ようとするが、彼等が提供するのは、「面倒見」であって、「語り合い」ではない。 老人は、お追従や上から目線の面倒見ではなく、同じ目線で、語り合える仲間を欲しがっている。 へら、へらと語り合いを迫ってくる見え見えな「へりくだった」恰好のサービス・トークをする職員は気持が悪いばかりでなく、阿呆ずらにすら見える。

職員は、概して入居者に比べて年が若い。 若者である。 だから、年功者である入居者達を「上から目線」で面倒を見ようとする姿勢が、「生意気」である。 年功者が求めているのは、「茶のみ」友達であり、同じ目線でお話をしたり、昔のことや故郷の街々のことを語り合ったり、政治や施設管理の不適当さを詰ったり、近頃の若者の在り様にケチを付けたり、することである。

お茶が不味い。 数十人の入居者へ、一定の時間になると、一斉にお茶のサービスを行う。 一杯、一杯を心込めて、急須で入れたお茶じゃない。 こんなお茶で、友達と語り合える筈がない。 茶滓臭い薄い茶(薄茶じゃない)をガブ飲みする茶だから、「茶飲み友達」できよう筈がない。 オマケに、コロナ感染を恐れるものだから、「対面」の語り合いは、成らぬと言う。 これでは、大声で、口角泡を飛ばす談論の出来る筈がないね。 

コロナを口実にするなよ。 元々、施設では、入居者を「個」としては扱っていない。入居者は、「統計上の」数字の一つに過ぎない。 コロナが流行っても、個人は、個人らしく生きていたい。 泡を飛ばしても良い工夫がある筈だ。 それが出来ないというのは、元々、施設にその気がないからだ。 

コロナ感染防止と経済・社会活動の増強とをバランスにかけて、色々と言っているようだが、コロナは老人の生活にも関係する。 コロナだからと言っても、老人が「お茶」が飲みたいことには、変りはない。 老人は待っている。 せめて、老人に旨いお茶を飲ませなさい。 それが、談論風発とまでは行かなくとも、施設を和ませる。