鉄道大臣

夢寐のたわごと

言葉使いⅡ

私が子供の頃(昭和10年前後)、まだ「女腹(おんなばら)」という言葉が使われていました。 男の子が生まれると、どの家庭も、近親・親戚こぞって喜んだものです。 それというのも、男の子は、その家の「名」を継いだからです。 「トラは死して皮残す、人は死んで名を残す(十訓抄)」という日本の故事があります。 

『十訓抄』(じっきんしょう、じっくんしょう)は鎌倉中期の教訓説話集。 編者は未詳、菅原為長六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業に充てる説と佐治重家に充てる説がある)説がある。

仏典「十善業道経」に発想し、「十訓」こと十ヶ条の教誡を掲げ、古今和漢の教訓的な説話約280話を通俗に説く。 儒教的な思想が根底を流れる。年少者の啓蒙を目的に編まれ、その後の教訓書の先駆となった。 三巻/十編。\序文には「広く和漢の書物に目を通し、その中から教訓となる話を集めた」と書かれている。 平安朝を中心に本朝・異邦の説話280を収め、『大和物語』『江談抄』『古事談』などの先行説話集や『史記』『漢書』など引用書の範囲は広い。また、平清盛など平家一門の生活圏における説話に、作者が直接見聞したと考えられるものも含まれている。 『古今著聞集』と重複する話も多い。

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十訓抄は作者は不明ですが、日本人が書いたものであることは自明です。 日本人は、この頃(鎌倉時代)から、「名」に拘っていました。 名が継続するものだからでしょう。 だから、名を継ぐ男の子が喜ばれたのです。 私には、4人子供がいますが、その内、3人は、他家へ嫁ぎました。 従って、嫁入り先の他家の名前を名乗っています。 男親が、しばしば、娘を「盗られた」と感じるのも無理はありません。 惜しい娘を嫁に「やる」のです。

あの有名な上杉謙信は、死ぬまで「法体(ほったい)」でした。 「葷酒は山門に入れません」から、後世に発生した浄土真宗の宗徒でない限り、酒も飲まず女房も貰えません。 息子の景勝は、もちろん実子ではありません。 現代でいう「貰いっ子」です。 謙信を継いだ景勝は、後世に至って、石田三成の側に立ち、徳川家康と戦って敗れ、上杉家は推定120万石の新潟から、出羽の国米沢30万石へ移封されました。 移封に際して、家来(家族ともども)の数を減らさなかったので、藩政は、天候不順の故もあって、貧困の極に達していました。 

累代の重なる困難な状況を担って、上杉家を継いだ第8代藩主上杉鷹山(養子)は、善政を施して上杉家の名を日本全国に知らしめました。 兎も角、上杉の「名」を継続することが重要だったので、上杉家は、養子相続を重ねました。 この頃は、家(名)を汚すことの無いように、武士も、商人(富裕商家)も、富裕農家も、日本人全体が、心がけました。 名の誉れ、すなわち、名誉こそ我が身(一代)を超えた家系の誉れなのです。 だからこそ、今日でも、天皇家は、天皇の位を「男系」で残すべきか、「女系」を認めるべきかが、内閣(宮中)諸侯の論議の的になっているのです。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。 関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。 戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

越後守護・上杉家に仕える越後守護代長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎。 東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。 後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った。 謙信は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。 他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄北条氏康織田信長越中一向一揆蘆名盛氏能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。 特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。 さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国能登国加賀国へ勢力を拡大したが48歳で死去した。 兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。 謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。

謙信は、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。 ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。 また、謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。

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上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)は、江戸時代中期の大名。 出羽国米沢藩9代藩主。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。 諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名であいみなる。 日向国高鍋藩6代藩主秋月種美の次男で、母は筑前国秋月藩4代藩主黒田長貞の娘・春姫。 母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。 このことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。

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ちなみに、引用文中あちらこちらにも見られるように、「いみなを与えられる」などの表記があります。 いみなは、「与えられる」ものなのですが、この言葉の裏には、「与える」という上から目線の「身分差別」の影が潜んでいます。 前回「言葉使い」で述べたように、日本語には、常にこのように「差別」の意識が漂っているのです。 

「(家)名」は、男子たる者の本懐を示し、名誉の印(しるし)であると共に、差別意識をも潜めています。 女子にも、名誉に似た心意気が求められます。 それは、他家へ嫁いで、夫に対する「内助の功」を果たすことです。  生前の夫に尽くすことはもとより「子無きは、去る」ことも、自分(の家)には関わりのない苦しいことですが、嫁ぎ先の家系を守るために、従来から女性に対して求められるものでした。 だが、このことは、必ずしも「女性差別』に繋がるものではありません。 むしろ、「美徳」と受け止められたのです。 このように、男子の本懐と婦人の貢献(婦徳)を前提とする文化が、日本文化そのものに埋め込まれてきたのです。

日本の伝統的文化では、夫婦が、互いに尽くし合うこと、従って、嫁が夫に尽くすことは、それなりに独立した堪忍と辛抱に裏付けられた「婦徳」です。 物陰に生えようとも、また、いかに強い風が吹きつけようとも、ススキの穂は、折れそうで、折れません。 夫の陰にあって、嵐に立ち向かう、たおやかで、美しく、優しく、温かい女性の夫(男)の家系に尽くす「徳」と「支え(内助の功)」が婦人には求められてきました。 荒々しく雄々しい武士(男)の魂と、優しく温かく抱く女性の懐が、釣り合って求められてきたのです。

なお、私が男性である為に、このブログを男目線で書きました。 私に、「婦徳」の如何を詳述することは不可能に近いと思います。 どなたか、識見ある女性が、婦徳についてのブログをお書きになるよう期待します。