鉄道大臣

夢寐のたわごと

言葉使いⅢ

昔、「滅私奉公」ということを言いました。 「滅私」は、分かります。 では、「奉公」とは? 文字通り解釈すれば、「公に尽すこと」です。 滅私奉公とは、つまり、「自分を無くし(抑え)、全体に尽くす」ことです。

公(こう)とは、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。 また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
日本の伝統的文化によれば、「家(全体)」が「その個々の構成員(家族)」に優先します。 日本人が言う「家」とは、「家系」を言い、長いその家族の歴史を通して、家系のメンバー全部が、「家」を構成しています。

家系の個々のメンバー一人一人に、家系全体(つまり、公)に尽くすことが求められています。 例えば、自分一個人の「面目」よりも、「家系の名」が大切と考えられます。 従って、家系を構成する全メンバーが、自分個人(私)を犠牲にしても、家系全体(公)の「名」を守ることを、全てに優先する第一義として要請します。

婦徳

昔、小学校の修身(道徳)の教科書に「山之内一豊の妻」の話が、教訓として載せられていました。 この教訓が、どこまで子供心に教訓として響いたかは疑問ですが、記憶にだけは残っています。

一豊夫妻の有名な逸話として、見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。
ウイキペディア

一豊(かずとよ)の時代の女性(奥さん)にとって、ヘソクリがどれほど大切だったのか分かりませんが、現代でも「身銭を切る」という表現もあるように、ヘソクリは、ある程度の重要さを持っています。 「備えを日頃から心がけよ」、が、この教訓のポイントだったと思います。 男の場合なら、差し詰め「治にいて乱を忘れず」に相当するでしょう。

女性は、一般に、「嫁して」他家の名を名乗ります。 自分が生まれた家から、長ずるに及んで、切り離され、他家のメンバーになるのです。 端的にいえば、女性は、他家の相続(家系継続)のために、「貰われて」行くのです。 従って、「子無きは去る」のです。言い換えれば、「他家の家系」を永代に続けるための「道具=手段」になるのです。 大事なのは、夫ではなくて、他家の「家系」であり、相手の夫も、「滅私」して、先祖から、末代に至る他家の家系に尽すのです。 文字通り、夫婦相和し、「万世一系」を保とうとしているのです。

こうした状況では、「恋愛結婚」でなくとも、「見合い」や「斡旋」で十分です。 「妻(嫁)は、夫に従えば良い」ことになります。 不幸にして、若くして夫に先立たれると、夫に代わって、子があれば子を育て、子が無くとも養子を迎えるなど、あらゆる手立てを講じて、夫の家の家系を継ぐ責任を担います。 

その意味で、諸国の大統領には、例えば、アメリカ大統領には、副大統領が選ばれますが、これは、大統領に万一のことがあった場合の保険であり、バックアップです。 副大統領に「女性」が選ばれることが多いのは偶然でしょうが、同時にこの事実は、女性にも男性に匹敵する能力が備わっていることの証明でもあります。 更に、駕籠かきの相方(肩)が不可欠なように、女性は(も)、家系の永続の責任を担う重要パートナーです。 

ならば、パートナーといわず、単独で、例えば、女性にも大統領のような重大責任を担うことも可能だ、と思われますが、そのような事例が世界には、多々あり、特に北欧の国に、女性大統領が多くいます。 日本の場合なら、例えば、古くは、巴御前、最近なら土井たか子女史(社会党委員長)、世界の主要国を挙げれば、以前の元英国首相、サッチャー、現在のドイツ首相、メルケル、など、数えるにいとまがありません。

翻って、以上をまとめると、男女の間に差別があるのではなくて、男女という生理的相違から、役割上の相違があることが分かりました。 ナイチンゲールは、クリミア戦争において、女性として自らの為し得る使命を通じて、献身しました。  日本女性の場合は、日本国には、「家系」を重んじる文化があるので、男女それぞれが、男性は、例えば、武士として正面に立ち、女性は背景にあって、人妻として、内助の功を尽くして「家名」を守るのです。

名誉

名誉
1 能力や行為について、すぐれた評価を得ていること。
2 社会的に認められている、その個人または集団の人格的価値。
3 身分や職名を表す語に付けて、当人の功労を称えて贈る称号。
4.有名であること。 評判が高いこと。
5 珍しいこと。 また、そのさま。 不思議。
ウエキペディア

上記のウエキペディアに定めた「名誉」の定義は、おそらく、英語の「honor」の定義の影響を受けて示されているので、日本的な意味での「名誉」とは、少し違います。  日本人が、考える名誉は、「家の名」の誉れを含むものであって、特定個人の評判や評価だけではありません。

自分一人の評判なら、腹掻っ捌いて済むことも、先祖から末代にいたる「家系」の名誉となると、己一人が死んで済むことではなくなります。 その意味で、日本人は、確かに「集団主義者」ですが、日本人が言う集団は、現存する人間の単なる寄り集まりではなく、先祖、後裔を含む代々(幽霊を)含めた集団です。 更に、日本人が考え、念じる集団は、極めて意味の広い、先祖、後裔、世界のいろいろな人々、人類全体を含めた集団です。 

その意味で、日本人が言う(日本語に埋め込まれている)意思疎通(コミュニケーション)は、意識されているか否かは分かりませんが、先祖のお祭り、後裔の為の祈り、などを含めた「霊」への繋がりまで含む極めて幅の広い生物全体にまたがる「佛の慈悲の心」に似たものだと言えます。 

謙譲語

日本語には、やたらに差別語が多いかのように見えます(聞こえます)。  例えば、他人に「物品」を与えると言う場合、「与える」は、上から目線の物言いであり、「頂く」と言えば、下から目線の「拝領」の意味が伝わります。 謙譲語や尊敬語など、言葉そのものが「身分差別」を表している、と言えなくもありません。 

「人に差別はない」、と言いながら、なんと日本語に差別語が多いこと。 身分差別に始まり、女性差別、人種差別、余所者(外来者)差別、云々と、日本は、その意味では、立派な差別国家です。 さはさりながら、これが日本文化なのです。 日本国には、季節からして、春夏秋冬と4季の別があり、風土には、山あり、谷あり、川があり、海があって、物事・色彩の幅広い区別があって、この国の風土の美しさを生み出しています。 こうした精緻な色合いを描写するには、物事、季節、風景、天変地異、等々の区別なしでは、間に合いません。 この恵まれた複雑な風土に育まれた人々は、当然、物事の区別に敏感でなかろう筈がありません。

日本人の間には、自然を、例えば、植物を盆栽なり、借景として、区別して取り出し、これを「愛で(めで)たり、取り除いたり」する慣行があり、その傾向が強く見られます。  愛でるとは、評価することであり、良いもの(善いもの)、悪いもの(悪しきもの)の相違を敏感に感じ取り、その上で、それらを選り分け、悪しきを捨て、良きものを取る気風と伝統が日本人の間にはあります。 だからこそ、日本人は高価な陶器を作成、寵愛し、珍奇な金魚を愛でたりします。 このような日本人の物事を、評価する気持ちと慣行は拭い去ることはできません。 言い換えれば、区別し、評価する(すなわち、差別する)伝統が、日本人の心の底に潜んでいます。 

他人を区別するのも、伝統や環境、生来の傾向に基づく、半自然のものです。 日本の場合、社会的にも、目上、目下、先輩、同僚・同輩、後輩、親友、喧嘩相手、両親、子供、孫、兄弟姉妹、などに対する応対の仕方、振舞が、伝統的・社会制度的に定められています。 相手は、それぞれ違うのですから、扱い方、付き合い方、等々、その場、その場で、適切足らざるを得ません。 臨機応変とはいうものの、斯様に変ずることの多い周囲の変化について行くには、よほど、身のこなしが変に応じなければ、身が持ちません。  その意味で、日本の社会は、窮屈で住み辛いのです。

ある時は、「うやうやしく」、また時には「ゾンザイに」、仮面をかぶって、オベンチャラを言うの付き合いもあれば、衝突覚悟の、あるいは親しい気持ちで、自分の地(素)で付き合う相手もいます。 そしてその都度、言葉使いや態度を変えねばならないのが、日本の「美風」とされています。 これを煩雑だと責めてはなりません。 それが約1,000年~2,000年かけて築き上げてきた我が文化なのです。 その都度、変えるのは言葉だけではありません。 衣服も、仕草も、生活習慣のあり方まで、何もかも言葉に合わせた、いや逆に、格好や仕草、態度に合わせた言葉を必要とする日本の伝統なのです。 それが、日本文化と伝統の「美しさ」を育んでいるのです。 おそらく、事のはじめは、古代中国の文化を移入したことに始まると思われます。

差別

とまれ、理に走ることも、情に流れることも、どちら向いても息苦しい日本社会において、「差別感」を払拭するためには、「理知」と「経験=習慣」に頼る以外の方法はありません。 広い太平洋の一端で、数百年、数千年に渡って中国・朝鮮以外の世界から隔離されてきた日本民族には、異なるものに対する「異物感」、「違和感」は、消し難いものです。 広い地球の一隅で日本国という箱庭に似た島国の中で、春夏秋冬、地震雷、天変地異、など、に度々遭遇し(恵まれ?)てきたこの国の比較的同質のモンゴリアン(有色人種)の人々に、違和感、差別感を払拭せよ、と言うのが、元々、無理なのです。 この無理を通すには、先述のように、近代的な「知性」と「新体験=経験の獲得」以外に方法はないと思います。

自分なりのまとめ

私事ながら、私は、生理的に「蜘蛛」、「げじげじ」が苦手でした。 また、「酸味の強い飲食物=酸っぱいもの」が嫌いでした。 ところが、ある日、嫌いな筈の「もづく酢」を飲んでみたところが、酸っぱいどころか、「甘い!」と感じました。 その後は、「もづく酢」を抵抗なしに飲んでいます。 蜘蛛、げじげじには、殺虫剤で対抗しています。 後は、カニ、エビ、シャコ、昆虫類、など節足動物とタコなど軟体動物を食べることですが、差し障りのない限り、これらは、放って置こうと思っています。

長年の「鎖国」状態の為に、異なる(異相、異装)人種に、我々が違和感を感じるのも無理はありません。 他方、女性差別感は、役割負担の相違として我が国の文化伝統を表す言葉の中へ埋め込まれているだけですから、認識を改めれば解決できる筈です。 総じて、異なるものへ人間が抱く違和感は、天然自然の物であると思います。 異なるものへの違和感は、「慣れ」と異なることの「理解」を通して消せるものだと、私は思っています。差別する気持ちも、同じだと考えています。