鉄道大臣

夢寐のたわごと

昔のコロナ

昔のコロナ

最近は、新型コロナ病の流行で、私のような高齢者は、外出もならず、大変迷惑している。 私は、昭和の一桁の時代に、奇妙な地名の土地に生まれた。 すぐそばに、「千本通り」という名の通りがあった。 長ずるに及んで、その名の由来を調べようと思ったのだが、幸い、パソコンという便利な「玩具」があるので、それを使って調べてみると、なんと千本通りは、昔の「朱雀大路」ではないか! そういえば、私が通った小学校の名は「朱雀第一尋常高等小学校」であった。 

では、なぜ「朱雀大路」が、「千本通り」なったのか、それが不思議で、更に探りを入れると、その昔、この都市には、三大風葬地があったと伝承されている。 それは、蓮台野(れんだいの)、鳥部野(とりべの)、化野(あだしの)の三つの野っ原である。  この時代にも、現代のコロナ病のような伝染病が流行した。 そして多くの人々が、バタバタと倒れたらしい。 ところが、貧しい人々が多い時代であったから、死人の葬儀に大変困ったと想像される。 

ささやかな、私の調べによると、こうした貧しい人たちの死骸は、風葬地に置き捨てられたらしい。 さらに、なぜこの都会の中央を貫いて走っていた朱雀大路が、どちらかといえばこの街の西寄りの私の生家の傍を走っていたのか、その点に一層の探りを入れてみた。 私の生家は、現代では「西陣」と呼ばれる場所にある。 しかも、最近まで(?)近くに路面電車(現代は路面バス)の車庫があり、「壬生(みぶ)車庫」と呼ばれていた。 そういえば、あの有名な幕末の新選組の「屯所」あった壬生寺が、比較的近いところにあった。 壬生村は、この都市の西の郊外にあった筈である。

この街は、夏は暑く、冬が寒いことで知られている。 平坦な盆地に作られた街だからである。  ところが、「平坦」とはいうものの、周囲に小高い山があり、東は「東山」、西はやや開けて、嵯峨野嵐山がある。 西は、「西陣」。 東は「東山」。 ははん! さては、町全体が東寄りの方向へズレたな。 さもありなん。 これは「応仁の乱」の結果かもしれない。 西陣が優勢で、東へ迫ったな? だが、西陣は、「山名宗全」の陣、確か宗全は(伝聞)東に譲って、戦いを終えた筈。 いずれにして、西が優勢で、壊滅したこの街も東へズレた! その結果、「東山、三十六峰 静かに眠る頃、突如として聞こえる剣戟の響き!」と、無声映画の弁士が叫ぶ!という次第だな。 だから、この街の中央にあった筈の朱雀大路が、西寄りの我が生家の傍を走って、「千本通り」と呼び名が変わった。

それにしても、分からんのは、「朱雀」が、なぜ「千本」? 歴史を紐解けば面白い。 探れば、探るほど、興味は尽きない。 考え合わせると、この街には、昔、三つの風葬の地(野原)があったという。 その一つ、化野(あだしの)は、現在も、「町名」として残っているし、場所は、現代の嵯峨野の傍にある。 しかも、この街は、応仁の乱の結果、東へズレたらしい。 鳥辺野(とりべの)は現在の「五条通り」の辺りに、そして蓮台野(れんだいの)は、現代の「紫野」! あいな! 紫野大徳寺町は、現代もその名がこの街の「北区」に残っている。 しかも、朱雀大路の北辺にあった。 なるほど、蓮台野は千本通りの「北」にあった。 千本通りの北に、死体置場、捨て場があったのだ!

蓮台野には、神仏の力も及ばぬ流行する感染病を患って死んだ人々の供養のために石碑や石塔を立てる力の無かった多くの貧しい人たちの死体や捨てられた無縁仏が多くあったに違いない。 そうした「無縁仏」を憐れんで、人々は、せめても彼らが「この世に生きた証」にと、卒塔婆を寄贈した!  優しい昔の多くの人々の心根。 南無阿弥陀仏

こうして建てられた卒塔婆が、数多く、千本以上も、本当に沢山、この道筋には、立てられていた!  悲しいが、優しい昔の人々の
生きた証の大路、千本通りを、千年も経た私の子供の頃、路面電車が走っていた! 歴史は面白い。 原爆の被害に嘆く人々も、遥か北の朝鮮国へ拉致された人々の無事な帰国を待ち望む人も、現在、コロナ感染症の被害を恐れる今の高齢者も、誰も彼もの夢、希望、喜び、悲しみ、など、何もかもが、「時の流れ」の中に、消えてゆく。 単なる一睡の夢だ。 それが人類の時々の足掻きとして現れる。地球の寿命は長い。 30億年! その長い歴史の中で、無用に足掻くのは馬鹿らしい。