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夢寐のたわごと

合理主義

合理主義(ごうりしゅぎ)とは、

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

啓蒙思想Enlightenment: Lumières、: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。 その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう。 ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。 自然の光(ラテン: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

17世紀後半にイギリスで興り、18世紀ヨーロッパにおいて主流となった。 フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。ヨーロッパ啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代という。

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日本は、明治維新をキッカケにして、急速に近代化しました。 それまでは、例えば、フリーダム(自由)と言われても、自由がどんなものかは、日本人の誰にも、幕閣の老中、若年寄から、地方の農民に至るまで、誰にも、もちろん天子様にも、分からなかったのです。 幕末に至るまで、日本人の誰もが自由を経験したことが無かったので、フリーダムと言われても理解の仕様が無かったのです。 

聞くところによると、フリーダム(自由)を翻訳する(日本語で表す)言葉に詰まり、「勝手」とか、「我儘」とかで、その意味を表そうとしたそうです。 これも伝聞ですが、福沢諭吉は、仏教用語の「自由」を借りて、フリーダムを表すようにしたのだそうです。 

「無い袖は。振れない」のです。 明治維新をキッカケとして、突然に、欧米の思想がなだれ込んできたので、日本の思想や日本人の考え方は、滅茶苦茶に混乱したと思います。 例えば、「合理」という考えは、元々、情にながれやすく、理屈立てて物事を処理する習慣のなかった日本人には、考えも及ばない「異国の」、そしておそらく「伴天連(ばてれん)」の考え方のように思えたでしょう。 

西欧の合理思想は、遠く17世紀に発祥しています。 それも、更に、遠いギリシャ・ローマの文明の復興(ルネサンス)を前提としたものですから、「根」が、日本の歴史(およそ1500年)の始めに相当するところにある思想です。 この長い歴史を通して、練りに練った合理主義の思想を、突然に、僅か150年ほど昔に幕末=明治に持ち込んできて、西欧に「追いつけ」、「追い越せ」といかに頑張ろうとも、元日本社会党委員長衆議院議長土井たか子女史が言ったように、「ダメなものは、だめ」だったのです。 

それでも、若干の分野では、ある程度、「追いつき」に成功しているようです。 成功した代表的分野は、「医学」でしょう。 しかし、日本には、日本なりの歴史があり、文化、伝統があります。 なるほど、医学の分野では追いついたようですが、医学の分野で急速に伸びたのは、医「術」です。 「術」は、技であり、形です。 「医は、仁術」という言葉がありますが、西洋医学の「技」の部分は、工芸に優れた日本人は、見事に見様見真似で、欧米に追い付き、追い越したようですが、「仁」、すなわち「心」の部分は、西欧のそれを移入した気配は、感じられません。  

西欧人の大半は、キリスト教徒です。  クリスチャンの信仰を心に、ナイチンゲールは、天なる父のお救いの心で「合理的に」戦傷に苦しむ西欧人の将兵を介護し、労わったと思います。 日本人なら、仏の慈悲の心で、「優しく」病める人々や貧しい人々を慈しみます。 介護や看護、労りに込める心が、西欧では、合理主義に立ち、日本では、仏心に立っていると思います。  

私は、信仰を含めて、殆どすべての分野について素人ですが、昔、「剣道(術)」の世界で、師匠は、「型」を教えることはできるが、剣の「心」は教えることができないと言ったとか、茶道、踊り(舞踊)、などでも、「心」を籠めなければ、モノに成らないという、などと聞きます。 心や魂は、長年の歴史に関わる伝統、文化に関わるものです。 西欧には、それなりの「心」や「魂」があるでしょうが、キリスト教徒でない日本人には、多くも場合、西欧人が持つ「心」や「仁」、「慈悲」を理解するのは難しいと思います。 日本人なら、それに代わるものとして、阿弥陀や仏教の高僧が示して慈悲の心、など、を、それなりに、理解できると思いますが、その理解はあくまで日本風の日本人としての理解です。 

西欧の人たちも、漸く統計的に(客体・客観化=普遍化して)人の心を、心理学的に、外察的に、観察・分析するようになったようですが、中国古代の哲学者を含めて日本の哲人たちは、個人的な内省を通じて、「悟り」を感じ、その重要さに着目していました。 外察的研究の結果は、容易に客観化できますが、内省的な個人の悟りは、簡単には客観(体)化できません。 ここでも、外察的な合理主義に、一歩譲らねばなりません。 

武道初心集(大道寺有山著古川哲史:岩波文庫)を読みますと、随所に(特に始めの部分で)武士たるものの「心構え=覚悟」が強調されていますが、こうした「心構え」は、客観的には捉え難いものです。 武士は、剣術や戦技に優れていることが望ましいのでしょうが、それだけでは武士たりえないのです。 武士には、「覚悟」が必要なのです。 この覚悟には、合理的には説明できないものが含まれています。 武士は、覚悟を「合理的に」習得するのではなく、「自得」しなければならないのです。 

私は、西洋医学の卓抜さ、近代科学の進歩、ITやAIの優れた機能には、大きく感服するものですが、そこに今一つ物足りないものを感じています。 私の物足りない感じは、近代科学と言えども、未だ信仰や「死後の世界」を合理的に説明できないことに由来するのかもしれません。