鉄道大臣

夢寐のたわごと

忠誠心

ご承知の「葉隠れ」は、鍋島藩(現佐賀県?)の殿様に仕えた藩士の書いた書物で、江戸時代(徳川幕府)は、他藩の藩士には憚らせるようにしていた、と言われています。 しかし、先の日中戦争、太平洋戦争に当たっては、軍部の主導で「葉隠れ」再び取り上げられ、国民の意識の作興に応用された書物です。

葉隠(はがくれ)』を完成させたのは山本常朝(やまもとじょうちょう)と田代陣基(たしろつらもと)。 どちらも佐賀藩(はん)に仕(つか)えていた藩士(はんし)だった人で、お殿様(とのさま)の近くで大切な仕事を任(まか)されていた人たちなんだ。 山本常朝(やまもとじょうちょう)から聞いた深い話や佐賀藩(はん)の歴史などを、田代陣基(たしろつらもと)がまとめたものが『葉隠(はがくれ)』なんだよ。 武士(ぶし)の日ごろの行動について書かれた内容もあるんだよ!

佐賀県 政策部 広報広聴課

 今一つの忠誠心を示す言葉、「尽忠奉公」は、封建時代の武士は、もとより、先の日中戦争、太平洋戦争においても、軍部によって、日本国民に鼓舞され、日本人に望まれた心映えです。 この言葉の源は、古代中国の故事(三国志)に由来するもので、広く日本国に知られ、今日も表現を少し変えて知られている精神です。

尽忠報国(じんちゅうほうこく)

忠節を尽くし、国から受けた恩に報いること。 「尽忠」は君主や国家に忠義・忠誠を尽くすこと。 「報国」は国のために力を尽くして国の恩に報いること。 中国宋 そうの岳飛(がくひ)はたいへんな忠誠心の持ち主で「尽忠報国」の四文字を背中に入れ墨をしていたと伝えられる。

出典:『北史ほくし』 顔之儀伝がんしぎでん

他方、「国家(公)」なり、「誰か尊敬する人」なりに対する気持ちがあります。 例えば、今もなお、この気持ちを体現するものとして、東京の渋谷駅頭に銅像として置かれている「忠犬ハチ公」は、日本人の間に広く知られ、受け入れられていますが、「ハチ公」が行動で示したあの気持ちです。

 このような「忠誠」を捧げられる対象としては、「国家」のような「公(おおやけ)」のものはともかく、「個人」が対象になることもあります。 そのような対象になる「人柄」をカリスマと呼んだり、人徳と呼んだりします。 私には、いまは亡くなりましたが、そのような人徳を備えた友人がいました。 不思議に、この男の周りに、誰もが慕い寄ったのです。 この友人は、長く人事部長をしていましたが、人事部長は、彼にふさわしい役柄でした。 この男の先任者は、周囲の連中から嫌われ、敬遠されていましたから、いわば、私の友人は、打って付けのサンプルだったのです。

カリスマ【(ドイツ)Charisma】

 《ギリシャ語で、神の賜物の意》超自然的超人間的な力をもつ資質。 預言者呪術(じゅじゅつ)者・軍事英雄などにみられる天与非日常的な力。 この資質をもつ者による支配マックス=ウェーバーカリスマ的支配と名づけ、合法的支配伝統的支配とともに三つ支配類型一つとした。

 人々の心を引きつけるような強い魅力。 また、それをもつ人。 「カリスマ性のある人物」、「ファッション界のカリスマ」

デジタル大辞泉

忠誠は、国家のような非人格的なものを対象にして尽くすこともできますが、今の時代では、「人」に対して尽くすケースも多いと思います。 私は、今までに、そのようなケースの良い例、悪い例を、数多く見てきました。 良い事例は、さておき、悪い例と思われるものを、次に、2~3例、報告します。 

ある日、私が使用している車椅子に「ガタ」が来ました。 それに気付いたヘルパーの一人が、すぐさま直してくれましたが、直しが十分でなく、直した筈の車椅子が進む内に、右寄りに傾いて行きました。 そのことに気付いた施設長が、自ら直そうと努力してくれました。 すると、多くのヘルパーたちが集まってきて、私のガタが来た車椅子を直そうと、作業してくれました。 ところが、施設長が他事を思い出したらしく、作業の中途で、その場を離れると、数分のうちに、それまで作業していたヘルパーが、一人減り、二人減り、間もなく、全員が居なくなりました。

以上は、施設長という「人間」に忠誠であっても、作業には忠実ではない、という例です。

 寒い日でした。 車椅子に乗せられた老婆が、冬の風がスース―と通る寒い玄関先で、家族か、タクシーか、の迎えを待っていました。 もちろん、若いヘルパーが付き添っていました。 車は、中々来ません。 待ち草臥れています。 若いヘルパーは、誰に聞かせるでもなく「もうすぐ、お迎えが来ますよ!」と呟きました。

これは、関心が、送り出そうとしている老婆にあるのではなく、自分の自然の(寒い、という)感覚に寄せられている、ということです。 ヘルパーは、自分(に忠実)じゃなくて、介護される人をヘルプすべきだった、という例です。 

私の長い(と私が思う)人生の若い時代の約五分の一が、戦争で過ごされました。 「滅私奉公」などと教えられました。 が、滅私は、不可能であり、従って、奉公も、容易ではないと知りました。 

「私」は不滅です。 「私」が無くなることは、「死」に通じます。 忠誠も、他人の為でなく、自分の為です。 先述のカリスマ性豊かだった私の友人も、死ぬ前に、私を名指しで呼び、いつもは、寡黙であったにもかかわらず、一時間あまりも独白しました。 自分の日頃の思いを、友人である私に独白したのです。 

任務や職責に忠実であることと、「公」や「他人」に忠実であることとを混同してはなりません。 人は、誰でも、以前のアメリカ大統領のように、まず、自分第一なのです。 私は、それが、生きていることの「証」だ、と感じています。 

翻って、私は、三つの専門分野をもっていると以前に報告しました。 ①図書館学、②歴史学古代ローマ史)、③行動科学/経営学(リーダーシップ)が、その三つです。 

リーダーシップが、それ以前の「英雄論」や「偉人論」が唱えるような個人の資質や性格、特性、カリスマではなく、仕事、任務だと、近代経営学の先駆者、P・F.ドラッカーは喝破していますが、 この主張は啓蒙思想に磨かれたクリスチャンとしての西欧人らしい主張です。 

彼が唱えるように、リーダーシップは、正に「技術」に他なりません。 誰か、もしくは、何かに忠誠を誓うリーダーもおれば、それに反逆するリーダーもいるのです。 忠実なり、忠誠なりであること自体は、リーダーのカリスマとは関係が無いのです。 人たちが慕うのはカリスマです。 「任務」や「職責」に忠実である人柄は、リーダーに「使われる(仕える)」人にとっては大切ですが、「仕える」こと自体は、手段の一部であって、目的ではありません。 

忠誠という行為の在り方は、忠犬ハチ公の行為のように、必ずしも、居なくなった主人の為ではありません。 大事なのは、目的の達成です。