鉄道大臣

夢寐のたわごと

女流文化

現代を遡る約1000年前、我が国では、女性文学者、紫式部、が「源氏物語」を発表しています。 ほぼ同時代に、清少納言が、「枕草紙」を発表しています。 平安時代中期は、天皇の力が強く、日本の政治は、天皇の権力によって治められており、未だ世に武家は登場していませんでした。

源氏物語は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。 文献初出は1008年寛弘五年)。 作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である。 主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代貴族社会を描いた。

下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。 これが『源氏物語』の始まりである。 当時はが貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。 それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。

出典: ウィキペディアWikipedia

枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。 ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。 執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(西暦1001年)にはほぼ完成したとされている。 「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。

出典: ウィキペディアWikipedia

時代は流れ、平安時代も末期になると、天皇家に継嗣問題が起こり(保元の乱)、この内紛の解決に、武家の力を借りました。 この乱を機に「武家文化」が台頭して、この武家文化の導入が、現代まで続く「武家的伝統」の嚆矢となりました。

保元の乱(ほうげんのらん)は、最近の保元元年(1156年7月皇位崩壊問題や摂関家の内紛により、朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。 崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇讃岐に配流された。 この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

出典: ウィキペディアWikipedia

「差別」と「区別」は、本来、異なる意味合いのものです。 女流文化は、元々、武家の成立以前に成立、発達していました。 その後に発展した武家文化と女流文化とは異なる筈です。 我が国には、世界でもまれな「女流文化」が生まれ、発達していたのです。 ただ続く数百年の武家文化が、その痕跡の多くを消し去ってしまい、今日では、武家(男)文化が支配的になっています。 

「女流文化」には、それなりの特徴があります。 その特徴の多くは、現代では、日本文化の特徴、美点とされています。 特徴としては、「女三人にして、姦しい」や「井戸端会議」などの表現で洗表わされ、「しとやか」、「優しい」、などの性質で示されています。 これらの特徴、性質は、人間としての在り方の特徴を表すだけで、優劣を表わすものではありません。 これらの性質は、男性にも備わる性質であるともに、「寡黙」、「小田原評定」、「乱暴」、「ドメスチック・ヴァイオレンス」など、それなりに、女流文化にも比べることのできる別の文化—つまり、男(武家)文化が存在することをも知るべきです。  

不幸にして、外国人には、日本文化の中に見られる下位文化としての「女流文化」の存在は判りません(彼等は、武家文化も女流文化も一律に、日本文化と受け止めているでしょうが)。 現代の日本人が男女こぞって、かつ、外国人までもが、日本文化の中に存在する下位文化としての女流文化の存在を知らずに、女性区別と女性差別とを混同して、森XXや二階XXらの古手の物知らず共を、非難するのは、「お門違いも甚だしい」のです。 

武家文化の中で生まれ育ってきた日本人は、男女を問わず、無意識に女性を区別します。 これを外国人たちが、「差別」と呼ぶのなら、自分たちの文化に女流文化の伝統が無いことを、恥ずべきだと思います。 

現代に生きる人々は、男女を問わず、国籍・種族を問わず、男子(武家)の荒々しく、猛々しい伝統の中で、生まれ育っている。 

従って、武家(男子)流文化が、基本だと信じるようになっているが、「女流」の文化が、稀であるにしろ、「別のもの」として存在したことを認識すべきである。