鉄道大臣

夢寐のたわごと

生きることⅡ

昨晩、寝ていて考えました。 91歳になったな! 私は1月の始め頃に生まれたと登録されていますから、正真正銘の「満」91歳です。 いや、正確に言えば、私が役所へ届けた訳じゃありませんから、周囲の者から教えられた誕生日は、前年末だったそうですから、「満」以上です。  

私は、ある老人ホームに住んでいます。私見ですが、私が住むこの常時80人前後の入居者が居住するこの老人ホームの老人の中で、「本当の意味で生きている人は少ない」な、と思っていました。 私の考えでは、生きている証は、何事かを「為している」ことです。 死んでいる人は、動かないからです。 その意味で生きることは、動くことです。 私が住む老人ホームの仲間の多くは、半分死んでいると言っていいと思います。  彼らの多くには、自分が生きているという認識すらが無いように見えます。

 よく言えば、彼らは「無聊」を託っているにもかかわらず、為す事が無い、とでも言えるでしょう。 要するに、退屈に日々を過ごしてしているのです。 いわば、今まで生きてきたことの惰性で生きているのです。 それでは、生きていることの意味がありません。 もっとも、前を向いて生きよと、彼等に言っても彼等の前には、「死」しかありませんから、前を向くと要求する方に無理があるのかもしれません。 

そんな風に考えると、「日々是好日」の精神が、判るような気がします。 この箴言が教えているのは「前」や「過去」じゃなくて、「現実」を見ることです。 幸せが漲っている現実を眺めるのです。 過去は、懐かしいでしょうが、アルバムに仕舞っておきましょう。 時々、眺めるだけでよいのです。

日日是好日(にちにちこれこうにち、にちにちこれこうじつ)は、禅語の一つ。 元々は、末の雲門文偃の言葉とされ、『雲門広録』巻中を出典とするが、一般的には『碧巌録』第六則に収められている、とする。

ウイキペディア

他人からよく聞く「退屈だなぁ」の退屈は、驚きも、新鮮さも感じない「どろ~ん」とした物憂い状況で感じる一時的な、その場限りの退屈だと言えるでしょう。  単純作業をず~と続けている場合や為すことが無くなってしまった状況もこれに分類できるかも知れません。 その場限りの退屈は辛いかもしれませんが、深刻な状況ではありません。 正しいと言うのも変ですが、正しい退屈なら、プラスの時間に変えられる見込みがあります。

継続的な退屈や人生や生活に慢性的に感じる退屈は曲者です。 憂鬱な感情が続いている状態を想像すれば判るように、継続的な退屈が長く続けば、うつ病に陥ったり、体の調子を崩すといった悪影響が考えられます。 最悪の状態になると、自分で自分の人生に終止符を打つことになりかねません。 

こういった心理的状態を翻すには、まず、「何かを為す」のです。 

行動している間は、退屈さは感じません。 その作業にひたすら打ち込むのみです。 従って、「鬱(うつ)を晴らす」には、「作業」へ没頭することが一番です。 出来れば、自分なりに意味が感じられる作業、趣味へ没頭するのです。 

仮に、障害を持っていたり、加齢のため体力が衰えていたり、身体で作業ができない場合でも、人間には、脳があります。 脳で作業するのです。 幸い、最近はITが発達し、脳作業もはかどるようになってきました。 脳活動も、立派な作業です。 なりふり構わず作業にいそしむのです。 それが「生きていることの証」です。