鉄道大臣

夢寐のたわごと

イメージとしての女性

男は、女性を「崇めて」いる。 西洋人は、「レデイファースト」で女性を扱う。 平行して歩かず、「3尺下がる」方は、男性だ。

いや、近世に至り「手に手を取りあって」並んで歩くようになった。 集会において、席を同じうした場合、女性が立つと、男性は「空かさず」立って後を追う。 

「金魚のウンチ」という表現があるが、今や男性は、女性(美女)のウンチである。 女は、東西を問わず、際立った生理的特徴を持っている。 概して、男性に比べて、体格が小柄(小造)である。 声がかん高い。 男の方が体力(筋力=金力にあらず)に勝る。 この特徴は、老年に至っても変わらない。 

結果として、女性は愛くるしく(時に、誰彼見境なく)甘え、男性としては、女性を可愛がりたくなる。 自然は、生物を巧みに作った。 この「性差」は区別であっても、差別の対象ではない。 この区別に付け込んで、人為的に、男が、女を見下すようになった。 それが、今日非難される「女性差別」だと思う。 

女性は、概して、「か弱い」から、女なので、さもなければ、人間社会は、味気ないものになる。 天与の幸福を破るものである。

その証拠に、キツイ女には、「振るい付きたく」もないし、女が、キツイと揉めることが多い(男も、キツイと揉めるが)。  

女性には、カワユク「囀って(さえづって)」貰いたい。 男は、決して「威張りたい」訳じゃない。 女の囀りを世のBGMとして聴いて、黙って聞き流す(おそらく、先日、えらい役職を棒に振ったあの方も、同意見だったと思う)のが、男心というものである。 双方が、天与の役割をキチンと果たしさえすれば、世間の不幸は、随分と、減るだろうと思う。 

男の独り言:女無くして、何でこの世かな?