鉄道大臣

夢寐のたわごと

このハテナダイアリーでブログを短・中編を取り混ぜ書き溜めて、私は3800編以上のブログを書いて来たと思います。 おそらく、読者の皆さんは駄作ばかりと思われでしょうが、駄作は駄作でも、今回は、少々、趣向を変え、読者の皆さんが、今まで気付かなかっただろうと愚考する「海」、「航海」をテーマとする一編です。 

日本は、四面海に囲まれた島国です。 遠い昔、北から縄文人が、南から弥生人が、遠くの土地から渡ってきたと伝えられています。

では、どのようにして? 千島、琉球列島沿いに? カヌーで? 

司馬遼太郎によれば、「灘」の字は、国字ではなくて、漢字だそうです。 日本列島の太平洋側には、灘が多い。 しかも、太平洋側の海には、台風や悪天候の頻度が高く、激しい流れの黒潮が流れています。

鹿島灘相模灘遠州灘熊野灘紀州 =枯木灘、播磨灘、水島灘、備後灘)

日本海側には、灘は皆無で、嵐を凌ぐことのできる寄港地も多い。 

昔の日本の菱垣廻船、弁材船、など全ての大型船舶は、中国由来の一本柱の帆立船でした。 一本柱の大型船は、大きな帆で風をはらんで走れば早いのですが一度帆が折れると、ただの浮箱(箱舟)になり下がります。 波静かな筈の瀬戸内海にすら、一本帆の帆立船とっては三か所も灘がありました。一本柱の大型帆立船の北前船が、大阪から北海道へ嵐が来るおそれの高い太平洋側航路を避けて、日本海経由で行ったのは、無理もなかったのです。 

颶風が多く黒潮流れる太平洋側の「灘」は、天候が読めなければ、地獄の入口でした。 漂流を覚悟していなければ、一本柱の帆立船では、恐ろしくて広漠たる海洋へ乗り出せなかった。 北前船は、陸地が見える日本海を沿岸に(沿岸航法)に沿って北方へ向えば、難なく北海道へ行くことが出来たので荒くれ船頭たちにとっても、この航法が、最も安全かつ安心でした。 

ペリー提督の黒船来航を通じて日本人は、始めて、三角帆の多柱船(スクーナー型やバーク型の大型船)の存在を知りました。 天象(星)が読めると、三角帆の多帆船なら、方向も知れぬ荒波の大海へ乗り出す航海も可能でしたが、そのような船を知らない日本の船頭には不可能でした。 アメリカ合州国より譲り受けた咸臨丸は、日本最初のバーク式三本柱三角帆の船でした。 黒船来航に慌てた江戸幕府は、早速、盟邦オランダへ朝暘丸(スクーナー型)建造を注文しました。 

遣唐使(618年~907年)は、一本柱の帆立船に乗って、九州北端から、対馬を遠望し、その対馬から、朝鮮半島突端にある済州島へ、さらに、朝鮮半島沿岸を右手に見ながら、仁川の少し北まで北上し、大陸の山東半島突端目指して黄海を横断、山東半島の裾にある黄河の河口から黄河を遡って、唐の都、長安へ到達していました。 遠い昔の話です。  

元寇の役(1274/1281年)の蒙古の大軍も、朝鮮半島を経て南下して来ました。 日本人と中国人のハーフとして生まれた鄭成功は、明国の王権回復を願いながら(1620)、その当時、台湾島を占拠していたオランダ人を追放しましたが、彼の戦いの多くは中国大陸「沿岸に沿っての」重なる海戦でした。 その頃まで、東洋人の目には沿岸航法で走る一本帆の帆立船しか存在しなかったのです。   

西欧人の三角帆多柱船を活用した大航海時代(およそ1400~1650年)は、ヴァスコ・ダ・ガマフェルジナンド・マジェラン等の工夫と勇気で、世界の海は開けました。 世界の海が西欧人(白人)に開かれると、南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸オセアニア)、インド大陸、アフリカ大陸南端(喜望峰)、マダガスカル島、その他の大西洋、太平洋に散在する諸群島や諸島までも開かれ始めました。 大洋航海を可能にする、西欧人の発明による多柱三角帆船が、海洋開発を促したのです。 

海洋は、人体における血管脈に例えられます。 陸地を五臓六腑に例えるなら、海洋は、いま一つの臓器、血管・血脈、にも例えられます。 地球の7分の1の広さを占め、地球の血脈にも例えることのできる海洋を制したイギリス王国は、一頃、世界を制した超大国でした。  

広芒たる大陸に恵まれた中国も、四面海で閉ざされた日本も、海の重大さから、目を逸らしていました。 片や、広大な大陸の中で、今一方は、閉ざされた島の中で、我らの祖先は、「海」を知ろうとしなかったのです。 海を渡る技術の工夫をなおざりにしました。 そのことが、我々を西欧諸国の「後塵」を拝する立場へ追い込みました。  

だが、時代は変わっています。 新しい時代の血脈は、「空」であり、「宇宙」です。 しかも、工夫を為すべき人達は、民族や種族ではなく、人類全体です。 人類は、一致して、グローバルに宇宙制覇を成し遂げると思います。