鉄道大臣

夢寐のたわごと

民主主義Ⅱ

民主主義は、輸入された西欧製の思想だ。 日本にも、江戸時代に民主主義に似た思想が生まれているが、西欧に置けるような市民の澎湃たる支持がなかったので、途中で消えてしまった。

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石田梅岩

丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、父権右衛門、母たねの次男として生まれる。 1692年、8歳で京都の商家に丁稚奉公し、7ヶ月ほどで故郷に戻ったが、1707年には再び奉公に出て商家の黒柳家で働く。 1724年頃、石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立し、1727年には黒柳家を辞し、1729年(享保14年)45歳で自宅に講席を設け、生涯を布教に努めた。 梅岩の講義は受講に際して紹介が一切不要、かつ性別も問わない無料の講座であった。

梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。 この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。

1744年、60歳で死去。

出典:ウイキペデイア

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西欧に誕生した民主主義は、その意味が変遷はしては来てはいるものの、その嚆矢はギリシャ・ローマ時代に遡る。 現代の民主主義は、いわば「焼き直し」で、17世紀後半~18世紀に発生しているが、日本へこの思想が輸入された(大政奉還:1867年)、明治時代の「自由民権運動」を通じてであった。 民主主義思想は、幾つかの付属思想をも、伴っている。 代表的な付属思想は、自由、人権、主体性、などである。

しかし、日本の場合は、西欧のように、基本的思想が、ギリシャ・ローマに遡るほど古くはなく、元々、外国製であるから、付属思想も、根が浅い。 言い換えると、自由の観念(言葉を含めて)や人権、主体性の観念も、日本人に根付いたものではない。 更に言い換えると、権力者)例えば、政府やお偉方が「要請」するだけで、日本では物事が遂行され、権力者の不当と思われる要求に抵抗したり、権利を主張したりすることがない。

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民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権(主権)を持つという政体制度政治思想であるが、その概念、理念、範囲、制度などは古代より多くの主張や議論がある。

古代ギリシアの民主主義は、寡頭制(少数派支配)に対する人民支配(民衆支配、多数派支配)であり、法の支配自由自治法的平等などの概念と関連していた。

しかしその後は長く衆愚政治を意味するようになり、17世紀以降に啓蒙主義による自由主義の立場から再評価され、社会契約論により国民主権の正統性理念となり、名誉革命アメリカ独立革命フランス革命などのブルジョワ革命に大きな影響を与えた。 民主主義は功利主義経験主義の立場からも評価されるが、同時に古代より多数派による専制や、民衆の支持を背景に少数独裁に転じる危険性も存在する。

(中略)

戦争中(第一次世界大戦)は銃後の女性を含め多くの国民が戦争に動員され、戦争に貢献する以上は政治的発言も認められるべきとして、結果として選挙権の拡大につながった。 こうして民主主義の正当性は高まり、最も独裁的な国家も自らこそが真の民主主義を体現していると主張するようになり、民主主義の理念を否定する体制が事実上なくなった反面、民主主義とは何かが曖昧ともなった。

(中略)

民主主義を実現するための制度にはその組織や国の歴史的経緯などにより、議会主義による議院内閣制、二元代表制による大統領制、あるいはその組み合わせ(半大統領制)などがある。また権力による独裁を防ぐための三権分立など各種の権力分立がある。また現代の大衆社会では政党圧力団体マスメディアなどの役割や影響力も増加した。

出典:ウイキぺデイア

(引用者注:「社会契約論」は、フランス人ジャン・ジャック・ルソーの作品)

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メイド・イン・ジャパンの民主主義は、元々、パクリなのであって、世界の民衆主義を語る場合も、私の説明を含めて、誤解が多く事実でないことも多い。 その意味で、主張や説明には、根拠となる出典が明示されていることが望ましい。

パクリとは、コピーということで、たとえて言うなら、「最中」に等しい。 最中の外見は、一応、固いようだが、皆さんもご承知のように、スカスカで、壊れ易い。 それどころか、中身としては、アンコだけで、主体性がない。 強く押せばクシャとペチャンコになってしまう。 今回のコロナ騒ぎにおける日本政府の対処の仕方によく似ている。

西欧人のそれには、「自由を守る人権」が詰まっている。 そういえば、私の仲間(そんな奴がいるとして)の中にも、「人権」を語る奴がいる。 でも、疑わしいのは、本当の「自由」の意味を知っているかどうかである。 西洋人の自由を叫ぶ連中は、コロナ統制を叫ぶお役所の命令に抗して、「マスク」をしない。 もちろん、だから偉いという訳ではない(単に、アホというだけだが)、「敢えて(この言葉、つまり観念が大事)」、こんなアホな形で自由を求めるところが、愛らしい。

アホでも良い、可愛らしくても良い、自分の「主体性」の存在を声高らかに叫んでこそ、そこに本当の自由がある。 要請に屈しない自分の存在を示す勇気が、自由なのである。 自由、平等、そして友愛(博愛)、リベルテ、エガリテ、そして、フラタニテ! この歌声と共に、フランス革命の結果として現代の民主主義が誕生した。 日本人は、それをパクり、コピーした(ちなみに、コピーが少しズレている。 なお、このズレは印刷機=日本語から来ているので、印刷者とは関りはない)。 

90爺は、好き勝手なことが言える

(上記の言葉の出展は、私です!)